Archive for November 2007

28 November

お前が、お前をチェックしろ

「ピーッ」という音がする。テレビの画面を見る。「エラーです。ディスクをチェックしてください」、そう表示されている。まただ、どうもここのところ調子が良くない。DVDレコーダーである。ハードディスクからDVDディスクへのダビングがうまくいかない。レンズクリーナーで掃除をする。うまくダビングができるときもあったが、だんだんダメになってきた。ディスクに問題があるのかな、そう思い新しいディスクを買いに行く。

新しいディスクの封を切る。レコーダーのトレイを出して、新入りの給仕のような手つきで、新しいディスクをトレイに乗せる。編集画面を出し、番組を選ぶ。操作手順に従って、ダビングのボタンを押す。よし、これで上手くいくだろう。期待で気持ちが膨らんでいくのがわかる。画面をじっと見ている。

「ピーッ」。「エラーです。ディスクをチェックしてください」。うーん、ダメなのか。参ったな。どうしよう。そうか、まだレンズに汚れが残っているのかもしれない。もう一度、クリーナーで掃除をしよう。

レンズを掃除する。そして再びダビングを。いや、念のためにもう一度だ。もう一度、レンズを掃除しよう。クリーニングディスクのブラシの部分にたっぷりとクリーニング液を塗り、丁寧に掃除をする。(というか、しているつもり。自分はただ目の前で待っているだけだから。)

さて、今度こそきっと上手くいくはずだ。ディスクも新しいのを買ってきたし、レンズは二度も掃除した。クリーニング液もたっぷりとつけた。これで失敗するはずがない。熟練の給仕のような自信に満ちた手つきで、トレイにディスクを乗せ、手順通りにダビングをする。

「ピーッ」。「エラーです。ディスクをチェックしてください」。

「…………」。なんだ、なんだ、その物言いは。突然、腹立たしくなってくる。ディスクは新しいものだぞ、ディスクに問題があるはずがないじゃないか。おまけにレンズだって二度もクリーニングしたんだぞ。それなのに、お前のその物言いは何だ。無礼じゃないか。自分にはまったく問題がないとでも思っているのか。それほどお前は立派なのか。当事者意識がまったく感じられないぞ。

「なんで、俺がディスクをチェックしなければならないんだ。チェックされるのはお前の方だ。お前が、お前をチェックしろ。ふん!」。

罵詈雑言である。罵詈雑言を浴びせ、気分もすっきりする。そして疑問を持つ。なんでこんな機械なんだろう。考えてみる、なんでこんな機械なんだろう、と。

そして、はたと気づく。人間が作ったからだ。こういう考え方をした人間が作ったから、こういう機械ができるのだ。人は何か問題があると、その原因を自分以外のところに求めたがる。そして人から批判されない場所に立ち、そこから客観を装い自分以外を批判する。ダビングが出来ない原因をディスクという自分以外に求め、客観的な言葉遣いで、ディスクをチェックしろと指示を出すDVDレコーダー。まったく、同じじゃないか。やはり人間が作るものは、人間のうつしでしかないのだな、としみじみと思う。

人は現実に対していろいろと働きかけるものだ。別の言い方をすれば、現在とは違う未来に何らかの願いを持つのが人というものだ。漠然とした夢であったり、ささやかな希望であったり、権謀術数を用いた野望であったり、考え抜かれた目標であったり、洗練されたプロジェクトであったりする。いろいろである。

なぜそんなことを人はするのか。それは、現在が変わらず同じ状態に止まるものでないことを知っているからだ。現在は変わる。未来は現在と違うすがたをしている。未来が現在と違うなら、その未来を何とか自分の望むようなすがたに出来ないだろうか。そう思うのだ。(いつまでもこの状態が続いてほしいと望むのも、この状態が続かないと知っていればこその望みだ)。

経験的に言えば、そうそう思い通りに行くものでもない。僕だけではないはずだ。周りを見回しても、それほど思い通りにいっているようには見えない。なぜそれが分かるか。不平不満が聞こえてくるからである。「自分はいろいろ考え、その考えに従ってきちんと行動した。にも関わらず、上手くいかなかった。原因は、アイツが思ったように動いてくれなかったからだ。予想外の出来事が起こったからだ。」などなど。自分の外側に原因を求めるのだ。

思い通りにならない現実。それは、自分の外側にある世界と自分の考えにズレが生じているということだ。そして不平不満を言う。不平不満とは自分の考えに基づいて自分の外側の世界に文句を言うことだ。「自分の考えではこうなるはずなのに、現実はそうならない。この世界は間違っている」と。

こういう姿は、実によく眼にする。そういうときいつも、「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってくださいよ」と言いたくなる。(でも言わない。口は災いの元だから)。あのね、現実っていうのは、つねに目の前にあるがままにあるんです。現実があなたの考えとズレているんじゃなくて、あなたの考えが現実とズレているんです。あなたの考えはあなたの頭の中にだけあるのものだけど、現実の方は目の前にしっかりとあるものです。現実は一瞬だって逃げも隠れもせずに、ずっーと、あるがままのすがたであるんです。人の考えなどと違って、ちょっとやそっとでブレることなく、いつもあるがままにあるのが現実なんです。現実とズレてしまうのは、あなたが目の前の現実をあるがままに見ようとしないで、自分の見たいものを見ようと苦心しているからじゃないですか。第一、あなただってその現実の一部なんですよ。あなたと切り離された現実なんてないんですよ。

人は多くの場合、自分の考えで現実を測ろうとする。それは自分と世界を切り離し、自分を不動の中心として、外側の世界を価値付けることである。でも、それは間違っているんじゃないだろうか。というか、不可能なんじゃないだろうか。自分の考えで現実を測るのではなく、現実のほうから自分の考えを見て、ズレを修正することが大切なんじゃないだろうか。そうやってズレを修正することは現実とダンスをするように自分が変わることだ。現在は私に合わせて変わり、私も現実に合わせて変わる。どちらも変わる。どちらも変わるからこそ、調和のとれた現実がここに顕れる。

DVDレコーダー、罵詈雑言を浴びせて、ごめんよ。僕も君に合わせてきちんと変わろう。だから、君も変わってくれよな。必ずだぞ。うん、つまり、直ってくれないかな。

でも、きっと直らないのだ。寿命である。そろそろ。ああ、諸行無常。
23:27:29 | tonbi | |

27 November

猿面患者

内田樹氏の『寝ながら学べる構造主義』という本を読んでいる。その中にフロイトの「抑圧」について説明している所がある。抑圧というのは、自分の心の中にあり、意識化することが苦痛であるようなことを、無意識に押し戻す働きである。無意識の部屋と意識の部屋の間には「番人」がいて、無意識の部屋から入ってこようとする心的な興奮を、その番人が検閲して、意識の部屋に入れさせない。問題は、私たち自身が、番人がどのような基準で入室を許可しているかを知らないこと。さらに、そもそも番人がそこにいて検閲していること自体を知らないことである。自分が自覚的に思ったり考えたりしている、私たちはそう思い込んでいる。でも案外、そうでもないんじゃないか、フロイトが言いたかったのはそういうことだろう。

そんな抑圧の仕組みについて、内田氏は、狂言の『ぶす』という話を例に説明している。内容はさておき、そこには太郎冠者と次郎冠者が出てくる。冠者か、と思う。冠者といえば「猿面患者」はどこに行ったのだろう。ふと、そんなことを思う。

子どものころ、母親に「顔をよく洗いなさい」と言われた。当然のことながら、子どもは顔なんか丁寧に洗わない。僕もそうだった。ちゃちゃっと、水で濡らして終りだ。夏の朝でも面倒で仕方がない。まして冬の朝、起きてすぐに冷たい水で顔を洗うなんて、とてもじゃないがやってられない。顔の正面を水で簡単に濡らして、すぐにタオルで拭いて、「はい、洗ったよ」と親をごまかす。

すると母親はよくこう言ったものだ。「顔の横の所も洗いなさい。ちゃんと顔を洗わないと、猿面患者みたいになってしまうわよ」と。「猿面患者」それは不思議な響きをもった言葉だ。それは、猿のお面が顔から剥がれなくなってしまった人だろうか。あるいは、生まれてすぐ捨てられ、猿に育てられた人間のことだろうか。あるいは、患者というのだから、猿ウィルスに侵されその風貌が猿化していく病気の人のことか。でも、そんな人を僕は見たことはない。どこか山の奥にでも猿面患者を隔離している病棟でもあるのだろうか。よくわからない。

「ねえ、猿面患者ってどういうのなの?」無邪気に母親にたずねる。「知らないわよっ!いいから早く顔を洗いなさい」朝は忙しいのだ。子どもの純粋な知的好奇心を満たしてくれるような出来た親はそういるものではない。そんなやり取りが毎朝のように続く。「ちゃんと顔を洗いなさい。横のところも洗うの。ちゃんと洗わないと、猿面患者のようになってしまうわよ」。「ねえ、猿面患者ってどういうのなの?」と。

僕があまりにもしつこかったのか、あるいは時間的余裕があったのか、あるいは機が熟したのか、ある日、答えがかえってきた。「知らないわよ。たぶん2軒となりの、田中のヨシちゃんみたいのじゃない」と。

えっ!。えっ!。驚いた。本当に驚いた。ヨシちゃんは確かに、猿っぽい顔をしている。でも、いきなりそれはないだろう。わずか2軒となりの同級生の仲良しの子をつかまえて、人が顔を洗わぬ果てに行き着くその姿を現わすもの、子どもを脅す時のその姿を現わすものとして提示してしまうとは。ひらたく言えば「お前、きちんと顔をあらわないと、2軒となりの、まるで猿そのものの、ヨシちゃんみたいになっちゃうよ」ということではないか。

猿面患者。その後、折りにふれて猿面患者のことを思い出した。たいていは思い出すと同時にすぐに忘れてしまう。それでも、猿面患者が人目を避けて森の奥深くで人間たちの世界をじっと見つめている姿を思い浮かべたり、病院でぐったりして点滴をしている猿面患者をかわいそうに思ったものだ。とくに映画『猿の惑星』を見たときなどは、いずれ猿面患者がこの世界を支配するようになるのではないかと恐怖したものだ。

そんな風にして時は流れた。そして30年近くたってからだ、猿面患者が「猿面冠者」だと気づいたのは。なるほど、猿面患者とは猿面冠者だったのだ。猿面患者などは存在しないのだ。だから母親は、「猿面患者ってどういうの?」という子どもの無邪気な問いにまともに答えられず、「田中のヨシちゃんみたいのじゃない」という苦し紛れを言ったのだろう。

猿面患者など存在しない、頭ではわかっていても、僕の心の中ではすでに猿面患者が自分の居場所を占めている。どうやら、僕の心の中の番人は、猿面患者が意識の部屋に入ってくることを許可したようだ。無意識の雑多な部屋から、猿面患者はやって来た。意識の部屋に。それも、お話しを一つ持って。

人は死ぬまでに三度、猿面患者に出会う。そういう話だ。

「七歳までは神の子」という言葉がある。七歳までの子どもは人間より神の領域に近いということだ。言い方を換えれば、子どもは七歳で人間になる。子どもは人間となるとき、自分の中の何かを切り離して、それと別れを告げる。切り離された何かは、自分と同じ姿をしている。もう一人の子どもだ。

私たちは切り離されたもう一人の子どもを残し、人間の世界へと仲間入りをする。そして日々を重ねるにしたがって、その子がいたことをいつの間にか忘れてしまう。その子はぽつんと一人、しゃがみ込んで、泣いている。両手で顔を覆うようにして涙を流す。声にならない涙を。

風が吹き、土ぼこりが舞う。風がその子のまわりを通り抜けて行く。長い間、本当に長い間、その子はしゃがみ続ける。土ぼこりが、その子の服をくすんだ色にし、髪をばさばさにし、肌を茶色にする。三年もそうしていただろうか。いや、五年だろうか。涙が枯れ果てたある日、その子は、人間世界に行ってしまったもう一人を探しに行くことになる。立ち上がり、両手を顔からそっとどける。全身、土ぼこりで汚れているが、両手で覆われていた顔の正面だけは、きれいな肌色のままだ。顔の正面はきれいな肌色だが、顔の横は土ぼこりで汚れ、茶色い。まるで猿のようだ。

私たちは死ぬまでに三度、猿面患者に会うことになる。いずれの場合も、猿面患者は笑顔で私たちの方にやって来る。やあ、と右手をあげて久しぶりの再会を本当に嬉しそうにしている。でも私たちはたいてい、彼を正面から見て話をしようとしない。何とかごまかそうとする。

「人違いじゃないかな、君のような知り合いはいないよ。第一、君は汚すぎる。まるで人間じゃないみたいだ。猿のような顔をしている。君は居場所を間違えているんじゃないかな。この世界は君のようなのがいる場所じゃないよ。さあ、電車代は出すからさ、自分の居場所に帰るといいよ。」

私たちは決して猿面患者の眼を見ようとはしない。見ることが出来ないのだ。猿面患者からは親しげな笑顔が消え去り、しっかりと私たちの眼を見据えながら私たちの話を聞いている。そして話の不自然さから、私たちが猿面患者が何ものであるか気づいていることを確認する。また来るよ、そう言って彼は静かに去って行く。

もう一人の自分を切り捨て、彼を猿面患者にすることで、人間世界に入ってきた。私たちの誰もがかつてそうしたのだ。だから私たちは半分の人としてこの世界を生きている。半分の人が作る半分の世界だ。猿面患者と正面から眼を合わせ、しっかりと彼を抱きしめることで私たちは一つになる。そして半分の世界も一つの世界になる。私たちは死ぬまでに三度、猿面患者と出会う。しかし、彼をしっかりと受け止められる人はそう多くはない。そんな話だ。

はっ、そうだ。本を読んでいたんだ。たしか『寝ながら学べる構造主義』という本だった。やれやれ、また妄想だ。本を読むのは得意ではない。じっと座ってられない。机の上のものをいじり出す。すぐに席を立ってしまう。たまにじっとしていると思えば、たいていは妄想に身を委ねることになる。(それを文章にしているのだから、もっとたちが悪い)。

人間というのは思ったほど、自分の思考をコントロールできるものではない。無意識と意識の間には「番人」がいて検閲をしているのだ。そこでは、意識化したくないような内容は無意識に押し戻される。問題は番人がどんな基準で検閲をしているのか私たちにはわからないということだ。猿面患者はフリーパスで行ったり来たりしているようだ。番人よ、お前はいったい何を検閲しているのだ。
01:20:04 | tonbi | |

22 November

どこから来て、どこに行く

ちょっと前のことだ。土曜日の夜、10時過ぎに横浜駅から大宮行きの京浜東北線に乗った。車内には、座っている人がちらほらいる程度だった。僕は自分の右側がドアになる端の席に座った。1つか2つ駅を過ぎたところで、ホームレスの男が乗ってきた。そして、僕の向かい側のシートの対角線上の端の席に座った。

それと同時に、乗客も少し増え、シートがほとんど埋まるくらいになった。当然、彼の周りの席だけ空席になる。彼は使い古されたような夕刊紙を膝の上に載せて、じっとそれを読んでいる。いろんな意味で眼が離せなくなった。

まず面白いのは、周りの人達の反応だ。駅に着くと人が乗り込んでくる。彼の隣だけ2、3人分の空席がある。当然、そこを目指して素早く動く。そして、突然、彼を眼にする。そして、すーっと。他の方に歩いて行く。それでも、彼から離れた席から人が座り始め、最後には彼の隣の席だけが空席になる。当然、彼の前でつり革につかまって立つ人もいない。

空席とその前に広がるぽっかりとした空間。駅に着くと、しめたとばかりに突進してきて、席に着く人がいる。(2人ほど。何故か中年の女性だった。)そして、何か違和感(実は臭い)を感じ、隣を見てぎょっとして席を立つ。「何にこれ。なんでこんな所にこんなものがあるの?」。驚きが最初で、後から非難が混ざる目つきだ。

まあ、確かに意外だろうな。でも、あなたが座る前からずっとその人はそこにいましたよ。それに、空席が1つあり、その前の空間がぽっかり空いているという状況を見て、変だとは思わないのですか。僕はそういう状況を見ると、何か変だと、まず気になっちゃう方だけどな。などと思った。この平和な日本の、土曜の夜の京浜東北線では、それほど非日常的なことは起こらない。普通はそう思うのかもしれない。僕がちょっとズレているかもしれない。

(これから年末。夜の電車で、目の前に酔っぱらったサラリーマンがやって来て、両手でつり革につかまり、足の力を抜いて、眼をつぶり、げっぷなどをしながら、揺れに合わせて、ぐらん、ぐらん、と目の前でやられるのを想像すると本当に怖くなる。)

きっと、空いている座席しか目に入ってないのだろう。そして、座りたいという強い思いがあるから、そこに一直線にダッシュするのだろう。ボールを追いかけ道路に飛び出して車にひかれる子どもの行動と、パターンはあまり変わらない。大人と子どもでは、内容が違うから違うことをやっているように感じるが、やっている「やり方」はあまり変わらない。人間はあまり進歩しないのだ。

あまり非日常的なことが起こらないと思っているからだろう。僕のとなりに座った20代前半の女性などは、彼の存在に最後まで気づかずに降りていった。彼女は見方によっては美人といえる女性だ。おしゃれな服を着ているし、スタイルも良く、ちょっときつめだが顔立ちも整っている。何よりも、自分が人にどのように見られているかを分かっている。

ところで、車内にはランダムな周期で、空気にのって彼の発する臭いにおいが漂ってくる。席を立って逃げるほどではないが、無視できないくらいの臭いである。何度目かの臭いが僕の周りに漂ってきた。すると、彼女が突然、人間をやめて動物になった。自分の服の袖を鼻先に持って行き、くんくんと、臭いを嗅ぎ始めたのだ。ひとしきり臭いを嗅ぐが、どうも違う。今度は頭を左右に振りながら、鼻をひくひくさせている。ちょっと笑いそうになった。おいおい、それじゃおしゃれを意識している自分が台無しだよ、という笑いと、プリミティブな反応をほほ笑ましく思う笑いだ。

臭いを発するホームレス。空席に飛び込んでは、ぎょっとして逃げ去る中年女性。突然、動物になってしまうちょっと美人の女性。けっこう、非日常的である。土曜日の夜の京浜東北線も捨てたものではない。実は、平凡な日常にもこれくらい豊かな非日常が埋まっているかもしれない。

そんなことをつらつらと思いながらも、もう一方では全然ちがったことを考えている。ホームレス、彼、その人である。60ちょっと前くらいの歳だと思う。目深にかぶった汚い野球帽からは白髪がはみ出している。横から見える表情はまじめそうだ。まじめに生きてきたが、失敗が積み重なり、自分でも気づかぬうちにホームレスになってしまったという感じだ。グレーの汚れた作業服のようなズボンをはき、薄手の青い(いや、かつて青だった)トレーナーを着ている。サイズは大きく、あきらかに最初から自分のものではない。この季節には少し寒そうだ。

実際、風邪をひているようだ。時々、ごほごほと咳をしている。鼻水が出てくると、トレーナーの袖で鼻を拭く。そのたびに袖の色がちょっと黒くなるのが、僕の席からも分かる。医者にはかかれないんだろうな、そう思う。風邪をひいて医者にもかかれず、薬も飲めないのだとすれば辛いだろうな。これから、どんどん寒くなるし。

それによく見ると、新聞をめくらない。実際には新聞は読んでいない。読んでいるフリをしているだけだ。顔をあげずにすむからだ。目深にかぶった野球帽も、顔を隠すためだ。つらいな、と思う。人前で顔をあげられなかった経験は誰にでもある。その場にいたたまれないが、でも逃げられない。せめて、相手に顔を見られないように顔を伏せる。それによって何とか自分を守ろうとする。夜の京浜東北線という当たり前の日常的な場所にいるときでさえ、そんなことをしなければならないのはつらいことだと思う。

第一、彼は何のために電車に乗っているのだろう。たまたまキップを買う金があったから乗ってしまったのがこの電車だったのか。目的地はあるのだろうか。もし目的地があるならば、そこには何かすることがあるはずだ。彼には何かすることがあるのだろうか。あるいは、終点の大宮まで行くのだろうか。大宮には彼の人生の新たな展開があるとでも言うのだろうか。わからない。

彼は、何らかの出発点から電車に乗って、目的地を目指しているのだろうか。出発点もなく、目的地もなく、ただたんに移動しているだけなのだろうか。わからない。不思議だ。あなたはどこから来て、どこに行こうとしているのだ。そもそもの始まりは何だったのだ。

もちろん、その瞬間、彼はホームレスである。それはハッキリしている。おそらく、人生をさかのぼって行けば、彼がホームレスにいたるさまざまな原因を見出すことが出来るはずだ。それらの原因にはそれなりの説得力があるに違いない。それでも僕は、わからないだろう。不思議だと感じるだろう。

こういうとき、いつでもそもそもの始まりを考えてしまう。そもそもの始まりとは、その人が生まれたときのことだ。おそらく彼も、産まれてきたことを喜ばれたであろう。他のだれもと同じように。そして、かわいい赤ちゃんだったに違いない。そして想像する。子どものころ彼が持っていた自分の夢や世界に抱いていた希望を。それらは、どうしても今のホームレスの姿に簡単には繋がらない。産まれたことを喜ばれ、希望や夢を持っていただろう人間が、数十年の時を経た結果、電車の中で自分の存在を恥じ、顔も上げられずに新聞を読んでいるフリをしなければならなくなる。

彼がこのようになった原因を探すことはできるが、彼がこのようになったのが何故であるのかはわからない。不思議である。一人の人間の人生はそう簡単にわかるものではないし、わかると思ってしまってもいけないのだろう。自分の人生をわかったと簡単に人から言われたくないと思うのであれば。風邪がひどくならないといいな。電車を降りたら少しは希望の持てる状況に行き着けるといいなと思った。

結局、彼は東京駅で降りた。少なくとも、目的地らしきものはあったのだ、彼にも。偏見かもしれないが、西日暮里駅で降りられるよりも良かった。東京駅からはいろんな場所に行けそうな気がするからだ。少しでも良い場所に行けますように。
00:07:09 | tonbi | |

19 November

便利さで何を失おうか?

少し前のことだが、防衛省の幹部にGPSつきの携帯を持たせては、という報道があった。その話はすっかり忘れていた。すると先日、ポッドキャストで、交番勤務の警察官にもGPSつきの携帯を持たせてはどうかという話を紹介していた。解説している人は、「警察官が知り合いの女性を射殺し、自殺したという事件もあった後だから、交番の勤務の警察官の動きを把握しておきたいのは分かる。けど、所詮、どこに人がいるかが分かるだけで、根本的な解決にはならない。もっと深い信頼関係が必要ではないか」と感想を述べていた。

この人は、根本的にテクノロジーの進歩を肯定している人だ。(僕としては、番組の内容はなかなか面白いので気に入っている。また、ちょっと世間からははみ出している彼の性格も嫌いではない)。テクノロジーの進歩を肯定しながら、深い信頼関係によってこの手の問題を解決したいというのは、ちと困難な要求だ、僕はそう思った。この人は、テクノロジーの進歩は避けられない、と言う。環境問題があるからといって、今すぐみんなが車を使うことは辞められないだろう。それは不可能だ。だからテクノロジーを進歩させつつ、その中でこの問題を解決するしかない。よく、そんなことをいう。

確かにテクノロジーの進歩は止められない。だからといってそれが肯定されるとは限らない。もしかしたら人間は、一方では群をなして南を目指す牛の集団のようにテクノロジーを進歩させながら、同時に坂道を転がり落ちる古い野仏ように何かを失なっているかもしれないのだ。テクノロジーの進歩を取ることは、別の何かを失っていることなのだ。

何か新しいものを手に入れるということは、すでに持っているものごとに新たな何かが付け加わることではない。新しいものを手に入れることは、新しい情況を手に入れることである。新しい情況は、今ある何かを失うことによってしか、手に入らないものかもしれない。そして多くの場合、失われるのは目に見えるものではなく、目に見えないことなのだ。

GPSという新しいもの、と、深い信頼関係ということ。この2つは、情況的には両立しにくい。人の管理にGPSを用いれば、多くの人は、人の管理をGPSに頼るようになる。自分がアイツのことを気にしてしなくても、きっとGPSがアイツを見張ってくれている。それに、下手に人のことに口を出すと厄介なことになる。第一、自分だってGPSに管理されているんだ。面倒なことはやめよう、と。

信頼関係は、お互いが相手を気づかい、何度も不器用なやりとりを通しながら、うまくいけば成り立つような関係だ。何月何日をもってお互い信頼関係を持ちましょうと言って、契約書を交わせば成立するようなものではない。つまり手間のかかることなのだ。テクノロジーは便利さを追求する。この時代、便利さとは、手間をかけないこと、楽なことである。手間をかけないテクノロジーの導入が、手間のかかる信頼関係と両立しにくいのは(絶対に両立しないとは思わないが)、僕には当然のことのように思われるのだ。

完全な子育て機械を想像してみる。テクノロジーが手間のかかることすべてやってくれる便利な機械だ。親は楽をして立派に子どもを育てることが出来る。しかし、そこでは親子に深い信頼関係が成り立つのだろうか。

同様のことを自動車開発の最先端の特集をした番組を見ているときにも感じた。環境に対する配慮が現代の最重要課題だとすれば、車の安全性は常に自動車開発の課題だったはずだ。確かに、テクノロジーの進歩によって事故が無くなるのは良いことだ。これには無条件で賛成する。これまでは防げなかった事故が、テクノロジーの進歩によって防げるようになる。これは良いことだ。

しかしこのことが、ちょっとくらい不注意に車を運転しても事故を避けてくれる。そういうことになるなら話は別だ。

前の車との距離を測るセンサーと自動ブレーキシステムがあるから、ちょっとくらい前方不注意をしていても大丈夫だ。ならば、前方の車に注意を払うのは手間のかかることだ。そんな手間は省きたい。そう思ってしまうのが人の性向ではないか。

テクノロジーは便利さを追求する。GPSもそうだし、事故防止システムもそうだ。便利さを追求することは、手間を省くことであり、楽を求める姿勢だ。しかし、手間とは単なる無駄な労力のことではない。あることを成し遂げるために必要な、気遣いや注意力などであり、それに伴う行為のことである。

便利さの追求の結果、あらゆる場面から、気遣いや注意力がなくなっていく。コミュニケーション能力の問題や単純だが信じられないような大きなミス、そして自己中心的な合理化の姿勢。こういう情況がテクノロジーによる便利さの追求と切り離されているとは思えない。

便利さ、そして楽を求めるテクノロジーを手に入れることで、コミュニケーション能力や単純なミスを未然に防ぐ注意力、そして他人を気遣う行為を失いつつあるように僕には見える。こういうツケはどこかに回ってくるものだ。今もどこかで誰かがそのツケを払っているのかもしれない。あるいはいずれ、誰もが等しくそのツケを払わされるのかもしれない。

本当に成熟した社会とは、ある程度の負荷を身心に要求するものなのではないか。ふくらはぎにほとんど筋肉のないおしゃれな女の子たちを見ていると、いつもそう思う。彼女たち(あるいは彼ら)は、いずれ歩道を走る自動三輪車みたいなものでみんな移動するようになるのだろう。その時、いまのままの歩道は道幅も狭く、段差も多いと不満を言うのだろう。そして道路整備の為に巨額の税金が投入される。その予算確保のために、より多くの税金を払わなければならなくなる。何が便利で何が不便か。

新たな便利さを手に入れるとき、私たちは何かを失っている。新しい何かを手に入れるとき、自分は何を失おうとしてるのか、そう問うようにしている。一度失うと二度と手に入らないものもある。失ってから、その大切さにはじめて気づくこともある。
22:24:26 | tonbi | |

17 November

さあ、再びきちんと走ろう

品川のクライアント先から自宅までランニングで帰った。距離はほぼ18km。2時間ちょっとかかった。久しぶりの長い距離だし、ランニングバッグを背負ってのランニングなので、だらだらと2時間半くらいかけて走るつもりだった。予想していたよりも距離が短かったのと、走り出すと脚が勝手に前に出てしまうのとで、思ったよりも短い時間で走りきれた。

その勢いに上手く乗れたのか、先週は45km走れた。少し、調子をを取り戻したようだ。実を言うと、ここのところ走るのが何となく億劫になっていた。今年の夏は暑すぎてあまり走れなかった。そのままずるずると秋になり、いつの間にか11月になっていた。全般的にやる気がなくなっていた。「ランニング・ブルー」だ。

面白いもので、やる気がなくなると走れない理由を探し始める。自分でも気づかないうちに。忙しいから、体調が悪いから、天気がよくないから。など、など。理由はいくらでも見つかる。

「出来る人は出来る方法を意地でも探し、出来ない人は出来ない理由を合理的に作り出す」。僕がいつも人に言っている言葉だ。他人には偉そうなことが言えるものである。ああ、恥ずかしい。

走るのが億劫になった理由は、走る時間を合理的に使おうとし、結果的に走ることを「つまらない時間」をにしてしまったからだろう。ここのところ、ポッドキャストをIpodで聞きながら走るようにしていた。科学系の番組やビジネス情報の番組だ。サブプライムローンの世界経済に与える影響とか、原油高の問題や、バイオエタノールが穀物価格を押し上げているとか、高速度不変の法則がタイムマシーンの原理となっているとかだ。

ビジネス情報や科学的な知識は僕にとっては副次的なものだ。できれば持っていたいが、そのための時間は正直あまり取りたくない。そこで閃いた、ランニングしながらに聞けばよいのだ、と。走っている間はとくに何をやっているわけでもないのだ。その時間にちょっとヘッドフォンをするだけで情報を手に入れられる、と。自分としてはきわめて合理的に考えていたつもりだ。ランニングをしながらビジネスや科学の情報が手に入る。一挙両得。

結果的には、ランニングも中途半端、ポッドキャストも中途半端になっていた。ランニングはただ単に走ればよいというものではない。きちんと走ろうと思うなら、自分の体と対話をしながら走らねばならない。呼吸の状態を安定させ、ペースに気を配り、使っている骨や筋肉を意識する。ポッドキャストも同じだ。走りながらの中途半端な聞き方では、僕のような門外漢はサブプライムローンについてそんなに詳しくなれない。走っていても効果が出ないし、情報も身につかなくない。いつの間にかそんな風になっていた。

ああ、2匹のウサギが西と東に走り去って行く。

そんなことをやっている自分に問題があるにも関らず、「走っていても時間の無駄じゃないか、自分には他にやるべきことがあるのではないか」などと、自分以外に問題があるように、合理的に勘違いを始める。自分の誤りに気づかなくなっている。厄介なものだ。(人間の大概の間違いは、最初のボタンの掛け違いと、そのあとの合理的な思考によって引き起こされている)。

そんな風にして、いつの間にか少しずつ走る気がしなくなっていた。今月末の筑波でのマラソンの誘いも断ったし、年末から来年の初夏にかけての大会の参加も極力減らそうとしていた。(まあ、もともとそれほどの走力がないのだから、減らすくらいでちょうどよいのだが)。

そんなとき『走ることについて語るときに、僕が語ること』を読んだ。村上春樹がランニングについて書いた本だ。僕は村上春樹氏に非常に影響を受けている。彼の本がなければ今の自分とは違った人間になっていたといっても過言ではない。高校生のときに『風の歌を聴け』を初めて読んで以来、ずっと読みつづけている。ビールはバドワイザーから始め、ピスタチオなるものを探し出し、最後の50メートルの海岸にも行った。そしてランニングを始めた。おそらく、春樹氏がフルマラソンを走っていなければ、僕もフルマラソンを走ることはなかっただろう。

『走ることについて……』を読み終えたのが、夜中。「まいったな」と感じた、「まったく、やられた。やれやれ、春ちゃんは頑張っている。それに比べて、自分はまったく情けない」。すごく反省した。(普段から、いい加減なので、しょっちゅう反省する。反省が素早すぎて、ほとんど身に付かない)。素早く反省して、すぐに来年1月末の館山でのフルマラソンにエントリーした。そして翌日に品川から家まで走って帰ることを決心したのだ。もちろん、ポッドキャストはなしで。

クライアント先を出て線路下のガードをくぐり15号線に出る。品川駅の向かい側を走る。田町駅のあたりはほろ酔い具合のサラリーマンたちだ。左手には電飾の東京タワーが見える。15号線から左に曲がり、増上寺の前を抜け、ひたすら道沿いを走る。酔っ払ったサラリーマンの千鳥足をかわしながら、時おりすれ違うランナーを横目で見ながら、まっすぐ走る。

日比谷公園の前を抜け、皇居のお堀端をを走る。水は濁っていて、深そうだ。何か気持ちの悪い生き物でもいそうである。柳の木が揺れている。柳といえば幽霊だ。いや、お堀端には女の人が背を向けて座っていて、声をかけて振り向いたらムジナだったりするのかな、などと妄想に身をゆだねる。疲れた来たのだ。だんだんと自分のおつむりが壊れだしていくのが感じられる。

坂を登り御茶ノ水の駅前に着けば、計算上はもう半分以上は走ったことになる。だが、感覚的には半分という気はしない。「ただ、ただ、今走っているだけ」という感じだ。
ずっと走りつづけている感じもしないし、まだまだ先がある感じもしない。ただ、今を走っているだけ。よい感じだ。こう感じられるときは走ることは苦痛ではない。「無駄な時間」とか「合理的」とかいう、効率重視の枠組みを取っ払えている。気が付けば、東大の前を抜け、駒込駅の前を抜け、飛鳥山の横にいる。残りは10分程度だろう。何とか走りきれた感じだ。

最後の百メートルはダッシュをした。そして我が家を通りすぎて、酒屋に駆け込む。ビールを2本買った。「悪くない。走って、悪いことは何もない」。すでに知っていたことを思い出す。思い出せて良かった。忘れなければもっと良かったのだろう。

「さあ、再びきちんと走ろう」ビールを飲みながら、強く思うのであった。


03:18:41 | tonbi | |