Archive for February 2008

28 February

幕の内弁当


今回は、お仕事絡みの話題である。またまた、情報化のプロセスについて。まずは確認。「情報化」というのは「なまもの」を「情報」にすることである。「なまもの」とは動いていてとらえどころのないものであり、「情報」とはある基準に基づいて整理されたものである。そしてその過程に「情報化」という過程が存在する。たとえて言えば、「生きた豚」はなまものであり、それが「パック肉」となり100グラム何円という形になっているのが情報である。その過程には「屠る」という行為が存在する。

私たちの周りにはさまざまな「情報」が満ちている。その「情報」といかにつきあうかが、現代社会での成功の鍵であるかのように言われている。情報に満ちているはずの社会で、私たちはしばしば、これは何なんだ、という事態に遭遇する。目の前に「なまもの」が現れたのである。

とは言え実際のところ、「完全ななまもの」が私たちの目の前に現れることはない。私たちが主観的に「なまもの」だと思っていることのほとんどは、他の人にとっては「情報」である。つまり、私たちは自分がどのように処理して良いのか分からないものに出合った時、それを「なまもの」と感じるのである。(「完全ななまもの」がどのようなものかは興味深いテーマである。こちらの方向に引っ張るとお仕事絡みの話にならないので、別の機会に書こう)

コミュニケーションの観点からすれば、情報のやり取りをしているときに、突然、なまものが入り込むと、ギャップが生じることになる。厄介なのは、自分は「情報」として提示しているつもりが、相手はそれを「なまもの」として受け止めたときである。こういうときには、その情報がどれほど大切であるかを説いても、あまり効果はない。その情報が大切だと処理する「情報化のプロセス」を、相手のほうは持っていないからである。こういう場合は、情報そのものについて説明するよりも、自分がどのような情報化を行っているかを説明したほうが話は早い。

よくビジネスの現場で、「情報をオープンにする」とか「情報の共有化を図る」ということが言われるが、より正確に言えば、大切なのは「情報化プロセスをオープンにすること」であり「情報化プロセスの共有化を図る」ことである。とはいえ、間違った「情報化プロセス」を共有するのは問題である。

この「情報化プロセス」は間違っているのでは、と感じることがしばしばあった。それはPowerPointを使ったプレゼンテーション資料を見せられたときである。実を言うと、僕はPowerPointを使ったこともないし、それがどんな機能を有するものかを正確には知らない。もしかしたら、これから書く事は間違っているかもしれない。そうなら、ごめんなさい。(誰に謝っているのだろう?)

PowerPointを使った資料を見せられたとき感じたのは、なんだかみんな同じようなものだな、ということだった。決まった型に材料を流し込んだら、似たようなものができ上がってきたという感じである。同じような品質のものを作るという意味では、それは悪いことではない。僕が気になったのは、それを作った人と作られたものとのズレである。普段のやり取りから感じられるその人の理解力、構想力、説明力などが、作られた資料の質とぴったりしないのである。端的に言って、みょうに「つるん」としたものができ上がっているのだ。

「ああ、幕の内弁当なのだな」と僕は思った。PowerPointというのは幕の内弁当の弁当箱のようなものなのだな、と。近所の弁当屋にいって、幕の内弁当がどのようなものかを見てくる。おおよそどんな食べ物を入れればよいか分かる。あとは、仕切りのついた弁当箱を買ってきて、似たようなものを作れば、自分なりの「幕の内弁当」ができ上がるのである。

情報化のプロセスをPowerPointが行っているのだ。どの食材をどのくらいの量で、どこに配置すれば良いか、おいしく見えるか。そういった、本来なら自分で試行錯誤せねばならない部分をソフトに委ねてしまうのである。試行錯誤は時間がかかる。しかし、時間がかかるからこそ身に付くというのが物事の現実である。でもそれは、効率化と一定の品質という観点からすると、無駄なことなのかもしれない。だから、使う。

こういうことを繰り返していると、当然のことながら、仕切りのついた弁当箱がないと幕の内弁当を作れなくなる。そしてやることといえば、弁当箱をよりきれいに飾るとか、目新しいおかずを並べるとかそういうことになる。

ひどい場合は、あらゆる食べ物を幕の内弁当用の仕切りのついた弁当箱に入れようとする。カツ丼とかカレーとかパスタとか、ただのおにぎりまでも、むりやり幕の内弁当化させて、それをオリジナルと称してみたりする。あるいは、弁当箱に合わない食材に文句を言ったりする。

ある道具を使って何かをするということは、その道具におんぶに抱っこをすることではなく、その道具がなくてもそれが出来るやり方を見つけ出すことだと僕は思っている。PowerPointを使うことはそれがなければプレゼンテーションの資料が作れなくなることではなく、PowerPointがなくてもプレゼンテーションが出来るようになることである。つまり、そこで行われている情報化のプロセスを身に付けることである。

逆説的な言い方をすれば、PowerPointがなくても大丈夫な人ほど、PowerPointを使っても大丈夫なのだ。道具を道具として使えているからである。PowerPointがなくてはダメな人は、気を付けたほうが良い。道具を使っているつもりでも、もしかしたら道具に使われているのかもしれない。道具とのつきあい方を考えないと、「君はやめてもいいから、パソコンは置いていってね」と言われるかもしれない。当然のことである。そこで仕事で一番重要な「情報化のプロセス」を担っているのはパソコンなのだから。




00:10:40 | tonbi | |

24 February

『日本の行く道』を読む

橋本治氏の『日本の行く道』(集英社新書)を読む。もやもやとした問題にくっきりとした輪郭を与える際の手際のよさと、分かりやすい話を積み上げながらも読者を飽きさせない語りの巧みさは相変わらずである。

この本は、近ごろの日本は何か変だよね、というところから始まる。その日本の変さを、地球温暖化という世界的な枠組みの中に放り込み、日本の問題を解決することが世界的な問題を解決することに繋がる。そんな風に話を進めていくのである。

地球温暖化の原因が人間の活動によるならば、それは18世紀末にイギリスで起こった産業革命に端を発する。産業革命以後の社会は、石炭・石油という化石燃料を燃やすことで得られる動力によって支えられている。その際、地球の温暖化を促進する「温室効果ガス」と呼ばれる二酸化炭素が排出される。こんなことが200年ばかり続いた結果が地球温暖化である。

簡単に解決できる問題ではない。誰かが悪いと犯人を捜し出せばすむことでもない。「エアコンの設定温度を28度にしましょう」と言っても、今後、世界中の後進国がエアコンを使用し28度に設定するとすれば、結局は温暖化は進む。どうすればよいか?橋本治の答えは簡単である。

産業革命以前の社会に戻れば良い、である。それが現実的でないと言うなら、「1960年代の前半に世界を戻せ」というのが答えである。産業革命以来、世界の平均気温は微妙に上昇してきたが、1960年代からは明白な上昇に変わる。だから、その手前に戻せば良い、というのだ。

ちなみにその当時の日本には、飛行機は飛んでいるし、新幹線だってかろうじて走っている。東京オリンピックもある。けっこういろなんものがあるのだ。何がないかと言うと、超高層ビルがないのである。超高層ビルがないと温暖化が……、話はこのように進みます。

この本を読んで2つのことが頭に浮かんだ。1つは、「問題の捉えかた」である。もう1つは、「豊かさ」とはどういうことか、である。

何か手を加えねばならい事態が生じること、それが「問題」である。その問題が何であったのか、実のところ、それは問題が解決したときになって初めてわかるのである。多くの場合、私たちは「問題」に取り組んでいるつもりのとき、問題の真の姿を見てはいない。「やま」を張って取り組みながら、その「やま」が正しいかどうかの確認をしているのである。

たとえば、山道で車が脱輪して引き上げるのに半日もかかったよ、というような話を聞くことがある。確かに事故の発生から、それが収集するまでには5時間がかかっている。ところが実際、車を引き上げるのは電話でしかるべき手配をして、専門車両が来て、現場で引き上げるのに1時間半しかかかっていなかったりする。

それまでの間は、自分で車を引き上げようと、バックでアクセルを踏み込んだりする。次は、毛布や木片をタイヤの下にいれて試したりする。家族に電話をして応援に来てもらって、同時に引っ張ってもらったりする。いろいろな取り組みをしている。しかし、結局うまくいかない。そして結局、専門の業者を呼んで解決する。

言い方は悪いが、1時間半ですむことに5時間かけている、と言うことは出来る。結局のところ、目の前で起こっていることを「どのような問題」として捉えているかなのだ。最初は、簡単にすむ。次は、ちょっと頑張ればすむ。さらに、家族に頼めばすむ。最後に、業者に頼まねばならない。目の前の事態は変わっていないが、その捉え方が変わってくるのである。

「地球温暖化」が、産業革命以前に戻さなければ解決がつかないほどの問題なのか。専門的なことは僕にはわからない。ただ、私たちの社会には、できる限り問題を「矮小化」しようとする傾向がある。その方が、解決にコストがかからないからだ。ところがその結果、より負担が増してしまう。あるいは、簡単に解決できるときには、何故か解決に向かおうとしない、という傾向がある。いつでも出来ることを今やるのは、時間の無駄だと思うからだろうか。

その意味では、橋本治が「1960年代前半に世界を戻せ」というのは、それが方法として正しいのかではなく、問題の捉え方として正しいのかを、問うべきものなのだろう。1960年代前半に戻すか否か、ではなく、1960年代前半に戻すくらい大掛かりなことをしないと手に負えない問題なのか、そういう問い方をしなければならない状況なのだなろう。(そしてこう言った思い切りの良い問いの立て方は個人的には好きである)

もう1つ、「豊かさ」について。本の中にこうある。『人は「豊かさ」によって自由になり、自由になって「豊かさ」を求め、その結果、「豊かさ」に翻弄され、「豊かさ」を失います。』

産業革命以後の社会が求めているものは「豊かさ」である。そしてその社会は地球温暖化へ向かっていく。とすると、「豊かさ」を求めることと地球温暖化へ進むことは1つに重なる。地球温暖化をとめる方法の1つとして「豊かさ」を捨てるという選択肢が出てくる。当然、そういう論理になる。

「豊か」であることが悪いかといえば、そんなことはない。問題は、何が「豊かか」を、一度も立ち止まってじっくりと考えた経験もないまま、「豊かさ」を追い求めていることではないか。食べ物もなく飢え死にするような人がいる状況から、食べ物に困らない状態になる。これは「豊かになった」と言える。では、テーブルの上に食べきれないほどの食べ物を並べ、好きなものだけ食べ、余ったものは捨てるくらい経済的な余裕がある。これは「豊か」ということになるのだろうか。

もちろん多くの人が、後者を「豊か」と呼びはしないだろう。ただ厄介なのは、この社会を成り立たせている消費主導の経済活動においては、使えるものを捨てて新しいものを買うことが、社会を豊かにすることであり、個々人を豊かにすることなる、そうなっているのである。そして、この社会で仕事をし、生活をすることは、そういうサイクルに巻き込まれることを意味する。

自社の製品を買わずに、まだ古いものを使ったほうがいいですよ。そう言うために、新製品の開発をする人もいないだろう。開発が大変であればあるほど、その商品が売れることは嬉しいだろう。販売でも同じであろう。お客さん、今もっているもので済ましたほうがよいですよ、とは言えないだろう。そうして稼いだお金で、欲しかった新しいものを買う、これも悪いことではない。

厄介なのは、個々人の「もったいない」という感覚と、この社会のあり方にズレが生じているのだ。社会から落っこちないようにするには、個々人の感覚を押さえ込み、消費主導のサイクルに身を任せねばならない。押さえ込めない人間は、引きこもったり、精神的に病んだり、自ら首をくくったりする。

そんな社会が産業革命以後の社会であり、地球温暖化に繋がる社会だとすれば、確かにそろそろ考え時である。僕はよく思う。ものをたくさん持っている人間が豊かなのか、ものがなくても平気な人間が豊かなのか、どちらだろう、と。
22:24:03 | tonbi | |

21 February

明け方の満月

走る。夜走り、朝走る。朝走り、夜走る。次のマラソンに向けて、今週と来週が練習のピークである。でも、時間が足りない。仕方がない、朝と夜、走ることにしよう。

仕事から帰り、荷物を置く。一瞬も気を緩めず、決して腰をおろさない。すぐに着替える。何も考えないようにする。考えると走るのがいやになる。

「疲れているか?」「ああ、疲れている」。
「では、マラソンの35km地点を走っているときより疲れているか?」「いや、それほどではない」。
「じゃあ、走れるはずだね」「OK、走ろう」。

走り終わると11時過ぎ。シャワーを浴び、少し調べ物をすると、もう1時過ぎ。おやすみ。
目覚し時計が鳴る。朝6時前。眠いし、疲れが抜けていない。さっき走って寝たと思ったら、また走るのか。やれやれ。よし、何も考えるな、と自分に言い聞かせる。そして問答。

「疲れているか?」「疲れている」。
「35km地点より疲れているか?」「それほどではない」。
「じゃあ、走れるはずだ」「了解」。

ここ数日、そんなことを繰り返している。

もう目覚ましが鳴っている。「いやだぁ」と言葉になりそうな瞬間に、何も考えるなと言い聞かせる。体が重い。布団から上半身を起こし、いつもの問答をする。

「もう35km地点くらいの疲れだよ」
「じゃあ、ここからが勝負だね」

「よいしょ」と起き上がって、窓の外を見る。

明けかかる冬の空。夜の闇が少しずつ薄れ、深みのある淡い青色の空が窓の外に広がる。西の空には、真珠色の大きな満月。遠くのビルの上にみったりと浮かんでいる。家族を起こさないように、そっとベランダに出る。肌に突き刺さるような冷たい空気に、細胞が目覚める。しん、としている。1日の響きが始まる前の止まった時間だ。止まった時の中を、月が少しずつビルの陰に沈み、空が明るさを増していく。僕の中で太陽が昇っていく。

走りながら、ランニングの目標を何度も何度も繰り返す。今日は朝と夜で13km走る。それでトータル52km。今週末には40km走り、トータルで110km。そのためにはウィークデーで後18km走ることが必要だ。その次の日曜日には190kmまで走らねばならない。週末が40kmだとすると、ウィークデーで40km。火曜日は走れないから、それ以外の日には1日10kmで達成できる。

走りながら何度も繰り返して考える。ここのところいつもそうしながら走っている。そしてはたと気付く、だから辛くても走っていられるのだと。これまでは疲れがたまってくると、今日は休んで、その分、別の日に走ろうと考え、結果的に目標の距離に達成しないことが多かった。ところが、今日は何km、明日は何kmというふうに目標を考えていると、今日やることを明日にずらすことが、目標からどんどんと遠ざかるような気がしてくる。惰性で結論を手に入れることは出来るだろう。でも、結局のところ、自分は何一つ達成できないんじゃないか、そんな気がしてくる。

そしてもう一度、はたと気付く。師の言葉の本当の意味に。私が20代の前半のころ、普段はほとんど具体的なアドバイスなどしてくれない師が、2つの言葉をくれた。

「30分で1つの仕事が出来るようになりなさい。そうすればものになります」
「自分の仕事は5年を1つの単位で考えなさい」

30分で1つの仕事、この言葉は自分でも気にするようにしていた。実際、30分で仕事が出来るようにもなってきた。それでも、自分は出来ていないなと、反省することの方が多い。理由は簡単だ。30分頑張って、別のところで1時間も2時間もだらだらしていることがあるからだ。今やらなくても、後でもできると思っていることがあるからだ。

出来ていない理由は、「自分の仕事は5年を1つの単位で考えなさい」という言葉を誤解していたからだと気付く。僕はこの言葉を勝手に「自分の5年後の目標を意識してものごとを進めなさい」という意味に歪曲していたのだ。我々は人の言葉を理解するとき、自分の言葉に置き換えて理解する。けれどもそれは時に決定的な誤解となることがある。相手がある言葉を使ったら、その言葉をそのまま受けとらねばならないときがある。

5年後の目標を意識してものごとを進めるというのは、ランニングの目標のトータルの距離を意識して走れるときに走るというのに近い。目標はきちんと意識している。でも、具体的に何かをやるかやらないかは、その日、その日の事情に委ねてしまう。そうすると、出来ない理由を見つけやすくなる。出来ない理由が見つけやすいとき、不思議と出来ない理由が目に付くものだ。

自分の仕事は5年を1つの単位で考えなさい、そう言ったのだ。それは、マラソンである目標を達成するためには、それまでに走らなければならない距離はどれくらいで、それを達成するためにはいつ、どのくらい走らねばならないかしっかり決めていることと同じなのだ。

今から遠く離れたところに5年後が存在して、それまでは目標に達するための準備期間だ。そんな考えをしていると、どうしてもものごとを進められないさまざまな理由が目に入ってくる。今と5年後が離れているから、どこかで他人事のように思えるのだ。

マラソンは本番が勝負である。でも、マラソンとそのための準備は別物ではない。準備と本番はひと繋がりだ。今日の練習がそのままマラソンの一部なのだ。今日の練習がマラソンの一部だとすれば、今日の練習にはマラソン本番と同じ姿勢で向かわねばならない。今日はちょっと疲れたからやめて、明日にすればいいや。本番でそんなことはしない。

自分の仕事は5年を1つの単位で考えなさい。これを言い換えれば、マラソンは準備と本番を1つのこととして走りなさい、となる。ここまで考えて、ああ、結局は人生なんだな、と思う。我々の人生はどこかにある本番のための準備ではない。日々、刻一刻、すべてが自分の人生の本番である。本番で大切なのは完璧であることではない。完璧であることなど自分には不可能である。大切なのは今の自分が本番であると自覚して、本番らしく振る舞うことである。

走りながら、そんなことを考えた。
23:28:06 | tonbi | |

20 February

お金の話を子どもとする

公園で遊んでいた小学校1年生の息子がどたどたと家に戻ってきて、母親に「100円ちょうだい」といっている。なぜ、と尋ねる母親に、見張り番がどうのう、と意味不明なことを答えている。お金を持って遊ぶのはまだ早いよ、そう言われ、あきらめて海で拾ってきた流木を2本もって玄関を出ていく。「木ならいいといわれた」そう言う愚息に、友達は一言「だっせー」。そうは言うものの、公園に木を持っていき、2人で何やら楽しく遊んだようである。

子どもにお金をどのように与えるかはけっこう難しいものである。買いたくなるようなものは山のようにある。小学校1年生とはいえ、お小遣いを持ってきて、駄菓子を買ったり、ガチャガチャをやっている子どもいる。そういう中で、1人で我慢しろと言うのは、親としてもそれほど心楽しいものではない。子どもが納得するような答えはなかなかないのだろうな、などと思いながらやり取りを見ていた。

その日の夜、たまたま愚息と話をする機会があった。ちょうどよいので、僕のお金についての考えを話した。まず、友達と遊ぶときにお小遣いを持っていくのはまだ早いと思うときっぱりと伝える。もちろん、家からおやつを持っていくことは構わないし、そのおやつを買うことにも異存はない。それにお祭りなどの特別なときに、友達と遊ぶならお小遣いをあげることもあるだろう。でも、日々の遊びにお小遣いを持っていくのはまだ早い。

お金を持っていることで巻き込まれるさまざまなトラブルを避けるため、という理由もある。しかしそれ以上に大切なことがある。それは、お金なんかなくても楽しく遊べる、ということだ。お金なんかなくても楽しいことを発見できる、そういう技術は子どもの時にしっかりと身に付けなければならない。(結局は流木で楽しく遊んだように。)

子どもはほうっておいてもやがて大人になる。大人になれば、好むと好まざるとに関わらず、ある程度はお金と付き合っていかなければならないし、お金のことを考えねばならなくなる。お金とのつきあい方は大人になってから考えれば良い。子どものうちは、お金とのつきあい方ではなく、お金なんてなくても十分に楽しめる、そういう原体験を積み上げることが大切なのだ。

お金がないと楽しめない。そんなふうになると、自分がお金をもっていないと友達と遊べなくなる。あるいは、お金を持っていない友達とは遊べなくなる。そのうちに、友達よりも友達の持っているお金の方が大事になってくる。(それはすでに友達とは呼べない。)

お金がないと楽しめない。そうすると、いやなことでもお金のためならやるようになる。やりたくないこと、恥ずかしいこと、本当は間違っていると分かっていること、そんなことをやらないと生きていけないような気がしてくる。

お金を使っているつもりが、いつの間にかお金に使われるようになってしまうのだよ。それは本当にひどいことなのだと僕は思う。そんなことを愚息に話す。とりあえずは納得したようである。それでもきっと、これから何度も何度も、そういう話をすることになるのだろうと思う。
00:51:34 | tonbi | |

17 February

技はコピーペーストできない

今回は前回の話を違う角度から書こうと思う。もう少し日常的で、具体的な出来事に結びつけてみる。前回の話の中心は「情報」と「情報化のプロセス」についてであった。

この世界には「情報」が満ちあふれており、その情報を効率的に処理できることが求められている。処理の簡単な情報とはブレがなく固定的なものである。1つの情報は決まった意味を持ち、誰にとっても同じ価値を持つ。それゆえ、迷うことなく瞬時にそれを利用することが出来る。

私たちはふだんあまりに多くの情報と接しているために、情報はそれ自身で存在しているように思い込んでしまう。ところが実際は、情報とは「なまもの」が何らかの「情報化プロセス」をへた結果である。つまり原理的にはどのような「情報」にも、「情報化プロセス」が組み込まれており、「なまもの」との繋がりが残されているのだ。ただ、それらが見にくくなっているか、それから目をそらそうとしていると、いつの間にか情報のみで世界が成り立っているように見えてくる。

さて、世の中には「ハウトゥー本」という類いの本が存在する。ハウトゥー本とは基本的には「なまもの」を「情報」にするための「情報化プロセス」が書いてあるものだと個人的には思っている。僕もときどき読むことがある。面白いものもあれば、つまらないものもある。面白いものは、「なまもの」に対してとても上手な「情報化プロセス」を行なっているものである。「ほうほう、こんなやり方もあるのか、ちょっと試してみよう」と思いたくなるようなものである。(反対につまらない本は、「なまもの」の存在を無視し、「情報化のプロセス」を問題にせず、すでにある情報をもういちど並べ替えるような本である。)

しかし、ハウトゥー本を読むとき重要なのは、本の良し悪しではない。それ以上に、その本をどのように読むかである。よくハウトゥー本を頭で読んで「はい、わかった」と理解して終わってしまう人がいる。ハウトゥー本に書かれていることを情報として理解するだけなのだ。そして理解したことを、そのままコピーペーストするように人に指示して、ものごとを動かそうとする。こういうやり方は大抵うまくいかない。何故か。ハウトゥー本の提供している「情報化プロセス」を自分の「情報化プロセス」として身に付けずに、「情報」として収集し活用しようとするからである。

ハウトゥー本とは奇妙な性格の本である。書いている人間は、基本的には「なまもの」をどのように「情報」とするのか、つまり「情報化プロセス」を提示するために書いている。情報化プロセスを習得することは基本的に手間のかかる作業である。ところがハウトゥー本を読む人は、「情報化プロセス」という面倒を避け、手っ取り早く効率的な「やり方」を手に入れようとする。両者には、根本的なズレが存在しているのだ。

僕が読んだ限りでは、ハウトゥー本にはそれほど多くのことは書かれていない。かなりの本が同じようなことを書いている。シンプルだが習得するには手間のかかる「やり方」が書かれているだけだ。状況に合わせてさまざまな具体的な事例を書いているので、バリエーションが多いのである。ハウトゥー本を情報収集のために読んでしまうと、どうしても多様なバリエーションに目が行き、シンプルな「やり方」の方が見えなくなる。

どこで読んだのか忘れたが、「優れた武道家は1つの技で100人の敵とに戦うが、ダメな武道家は100の技で1人の敵と戦う」というようなことを目にしたことがある。優れた武道家は自分の「やり方」をしっかりと持っているから、それを状況に合わせてさまざまに使い分けることが出来る。ところが、ダメな武道家は状況ごとに技を考えるので、結局、自分の「やり方」を持つことが出来ない。

「情報化プロセス」とはある種の「技」である。「技」を身に付けるにはそれなりの時間が必要である。少なくとも、コピーペーストで技は身に付かない。だからハウトゥー本が話題になったとき、とにかく1つでよいから具体的なやり方を身に付けるように、というようなことを言う。本に書いてあるやり方を1つでも丁寧にやってみれば、そこで行われている情報化プロセスがどのようなものか分かるからだ。自分が「技」を持っていればそれと比較できるし、自分が持っていなければとりあえず「技」を手に入れることが出来る。

本来、ハウトゥー本とは身に付けにくい「技」を、きちんと身に付けられるために存在するものだろう。ポイントはきちんと身に付けられることであり、その時間を限りなくゼロに近づけることではない。何かを手に入れるためには、それに必要な時間と手間がある。それは決してコピーペースト的なやり方では手に入らない。少なくとも、良いハウトゥー本はそういうことを教えてくれるものである。

今日は、東京マラソンである。僕は抽選にもれ、おまけに風邪をひいている。一日中、家でごろごろしていた。何人かの知り合いがハードでタフな時間を過ごしたはずである。マラソンも「なまもの」に触れざるを得ないものであり、走りきるためには何らかの「技」が必要である。走りながら、自分の技に磨きをかけたり、自分の技を確認したり、自分の技を作り上げたり、何かを手に入れたことと思う。コピーペーストでは手に入らない何かを。
19:43:23 | tonbi | |