Archive for April 2008

27 April

「教わる」より「盗め」


合気道に正式に入会した。先々週の木曜日に体験稽古をし、先週の木曜日に正式に入会した。7歳になる愚息も一緒に入会した。親子で合気道である。今のところ、2回ほど稽古をしたことになる。ランニングで鍛えているせいか、それほど体がきつくはない。それでもいつもとは違うところが筋肉痛になったり、肘の関節がちょっと痛んだり、小さなアザがいくつも出来たりしている。

よくよく考えてみると、一から人にものを教わるというのも久しぶりのことである。どちらかというとここ10年くらいは人にものを教える側であった。もちろん、分からないことはたくさんあった。それでも大抵の場合は自分で調べたり考えたりして答えを出してきたし、人に教わる場合もヒントや助言程度であった。

教わる立場を2週続けてみて、なるほどと思った。教える人によってこちらの上達が全く違うのである。先々週も先週も、それぞれ1人の人が1時間半ほど稽古をつけてくれた。どちらの人も初心者である僕に一生懸命に技を教えようとしてくれた。教えてくれる技もそれほど違うものではない。

でも全く違っていた。先々週はいろんなことを吸収した実感があったが、先週は何が何だかよく分からないままに稽古が終わってしまった。何が違ったかというと、教える人間が何をどの順番で教えればよいか考えているか、いないかである。

教えたい技には「完成形」というものがある(はずだ)。教える側はそれを念頭において、教えているはずである。しかし初心者には「完成形」など出来るはずがない。(だから稽古をするのである)。その時、教える側は何をどの順番で教えるのかをきちんと持っていなければならない。

先々週の人は、その辺りを見事に心得ていた。まず、技をやってみせて、きちんと説明する。ある程度、細かいところまで説明する。その上で一番大切なところを強調して、そこを意識して稽古するように指示を出す。僕としても1つのことに集中すればよいので分かりやすい。リラックスして稽古が出来るので、けっこう上手くいく。上手くいくと、「それでいいです」とはっきりと言ってくれる。課題を1つクリアである。

すると今度は、次の課題をのせてくる。少し細かい部分だ。最初の説明で聞いていることなので、頭ではすでに理解している。今度は、そこに意識を集中して技をやってみる。それを何度も何度も繰り返す。時には、フライングして難易度の高い部分にチャレンジする。すると、「今はそこまではいいですから」ときちんと止めてくれる。

最終的に何を身に付けるのかが分かっている。その中でいま自分がどの段階を練習しているのかが分かる。やればやるほど、自分の出来ていることが多く感じられてくる。教わる身としては非常にやりやすい。稽古が終わった時には、自分が出来たところははっきり掴んでいるので、家に帰ってからも復習がしやすい。不完全ではあるが、イメージとして技が掴めているのである。

こんな風に合気道の稽古は続いていくのか、楽しみなことだ。そう思っていたら、先週の木曜日は全く違っていた。まず、技をやってみせて、説明をしてくれる。ここまでは同じだ。細かい説明もある。でもここからが違う。とりあえずやってください、という感じである。

言われるままにやってみる。すると「うーん、腕の場所がよくない」と具体的に教えてくれる。そうなのかと思って、腕の場所を意識してやってみる。「うーん、入り込むのがちょっと遅い。もう少し速く入り込んで」とこれまた具体的に教えてくれる。よし、それではと思い、素早く入って相手の腕を勢いよく取りに行く。「うーん、力が入りすぎているよ。もっと体をリラックスして。ゆっくり、ゆっくり」とこれまた具体的に教えてくれる。

具体的なのだが、ちっとも見えてこない。おそらく、技の完成形と比べて、僕の出来ていないところ1つ1つ丁寧に指摘しているのだろう。しかし、最初に指摘されたことが出来た上での次の指摘なのか、最初の指摘とは別の指摘なのかが僕には分からない。だからどこに焦点を絞って練習すればよいのかわからない。目的を失ったモグラ叩きのような気分になる。(果たしてモグラ叩きに目的などあるのだろうか?)。

いったい自分は何を身に付ければよいのだろう。集中して技のイメージを掴もうとする。すると、僕が悩んでいるのだと勘違いしたのか、「大丈夫、大丈夫。時間をかけて身に付けていけばいいよ」と慰めてくれる。「はい、ありがとうございます」と礼儀正しくお礼を言いながら、何とか技のイメージを自分なりに掴む。

すると、「1つの技ばかりじゃ、飽きちゃうだろうから、別の技もやりましょう」と言ってくれる。そして同じことの繰り返しである。そんな訳で、先週の木曜日はいささか消化不良な感じで帰途についたのだった。

で、これを一般論的な方向に引っ張るとこういうことになる。人に何かを教える時には、完成形を念頭に置きながら、出来ていない部分を指摘し続けると、結局のところ人は伸びない。常に「出来ていない」と言われ続ければモチベーションも下がるだろうし、具体的に何をやればよいのか分からなくなるからだ。人を伸ばそうと思うのなら、完成形を念頭に置きつつ、教わる側が1つずつ出来ていると実感できるように、具体的だが簡単にはできないようなやり方を用意するのがよい。これが人を伸ばす時のコツである、と。

一般論ではそうなのだが、実をいうと、まあこんなものかな、とも思っている。確かに、先々週の人に比べて、先週の人は教え方はそれほど上手くはなかった。こういう時、下手な人を批判すればそれなりの意見に見えるかもしれない。

でもそこで、ふと思う。それこそ完成形に照らして出来ていない部分を指摘することじゃあないのか、と。自分が教わる側に回った時に、これじゃあちょっと分からないよ、というやり方と同じ「言葉遣い」をしたとすれば、きっとその言葉も「これじゃあちょっとね」ということになるに違いない。

「技」というのは「盗む」ものである。「教わる」ものではない。基本的にはそういうことだと思う。その意味では、教えるのが上手とか、下手とかはあまり関係のないことなのかもしれない。「教えてもらおう」などと、どこかで思っていた自分が甘かったのである。



23:02:12 | tonbi | |

24 April

楽は苦

社会心理学者の岩男寿美子さんの対談をポッドキャストで聞いていたら、外国人の犯罪と日本人の犯罪の違いについてこんなことを言っていた。

「外国人の犯罪というものは、基本的にはお金に困ってするものが多いです。借金があるとか、本国の家族の生活のためとか」。それを聞いて司会者が「日本人の犯罪はあまりお金とは関係ないのですか」と尋ねたところ、「いいえ、お金が関係ないというのではないのです。お金に困ってというより、お金が欲しいから犯罪をおかすのです。お金があれば何でもできるから、とにかくお金が欲しい。お金に困っているんじゃなく、お金が欲しいから犯罪を行うというのが非常に多いです」。

なるほど。そんな記憶がまだ頭の中でうごめいている時に、次のような文章に行き当たった。

『私の子供のころには、「お金持ちになりたい」なんて言う子はいなかった。子供がいきなりそんなことを言うはずもないから、大人に言われているのである。「金持ちになれ」「社長になれ」と教え込まれているのである。「宇宙飛行士になりたい」という子は可愛い。しかし「金持ちになりたい」という子が可愛くないのは、それが「夢」ではなて「欲望」だからである。宇宙飛行士は夢を追う。しかし、金を追うために金を追うなど、およそ子供の見る夢ではない。……金が欲しい。ただ金が欲しくて、金が欲しいのである。』

「金」と「欲望」である。たしかに、このところの風潮を見ているとそんな気がしてくる。すべてを金銭的な価値で見てゆく傾向が強くなっているような気がする。個人的な印象では、「とにかくお金である」という風潮が強まったのは、懐かしのバブル景気の頃である。あの頃から、多くの大人たちが「金こそすべて」と言い始めた気がする。

子どもに向かって平気でそういうことを言い始めたのだ。バブル以前は「大切なのはお金じゃなくて、まじめに生きることだ」とか「お金に振り回されるのは愚か者のすることだ」ということを大人たちは子どもたちの前では口にしていた。実際、裏で何をしていたのかはわからない。しかし少なくとも、子どもたちの前ではそういうことは言わなかった。

そういう世間が数十年続けば、そういう考えが当たり前になるのは自然なことである。そう、何よりもお金が大事なのである。何よりも大事なものだから、子どもが欲しくなるのも当然だろうし、それを手に入れるためには、手段を選ばなくなるだろう。お金を手に入れるために犯罪を行うこともあるだろう。

とにかく効率良くお金を手に入れることが重要だ。経営者は、少ない賃金でいかに社員を効率的に働かせるかが才覚の見せ所となる。名前だけの管理職与え、残業代を出さないようにする。非正規雇用のスタッフを多く使うことでコストを切り詰める。いろいろやる。社員の中には、いかにして少ない労働で多くの賃金を手に入れるかを考える人間も出てくる。とにかく無理をしない。他の人に任せられる仕事は任せる。なるべく疲れを残さないようにする。お互いに自分の「欲望達成」のための手段として相手を見ているのである。

そして一方には、消費者の「ニーズ」という言葉がある。「ニーズ」と言えば聞こえはいいが、その多くは、それまで無くてもすんだものをわざわざ作り出したものに過ぎない。無くても困らないが、あれば便利なものを作り出すのだ。まさに消費者の「欲望」を焚きつけているのである。欲望を焚きつけておいて、そこでお金を手に入れる。まさに「金」と「欲」で回っている。

無くても困らないが、あると「便利」である。一度その「便利」を体験すると、無いことが「不便」と感じられるようになる。便利とは何かといえば、「楽」なことである。物質的にも、肉体的にも、精神的にも「楽」なことを人は潜在的に「欲」しているのだ。だからその「欲」に合致するようなもの探し出せば、それが「ニーズ」であり、それでお「金」を手に入れられるのである。

人が「楽」を求めるのは悪いことである。そんな野暮なことを言いたいのではない。誰であれ人は「楽」を求めるのである。「キツいほうが楽である」という奇妙な言い回しが通用するように、何が「楽」かは人によって違う。でも、誰もが「楽」を求めている。

これを裏返せば、かつて聖人が悟った真理を、誰もが知っていることを意味する。「楽」を求めるということは、自分が「楽」でないことを知っていることになる。つまり「楽」を求める人間は、自分が「苦」にあることを知っているのだ。

人生が「苦」であるというのは、釈迦が説いた真理の1つである。それを「苦諦」という。私たちは「楽」を「欲」するという仕方で、自分たちが「苦」にあるという真理を逆説的に示しているのである。

「苦」にあるからこそ、「楽を欲し、金を欲する」というのが我ら凡人のあり方である。釈迦が「苦」から抜け出すために説いたことは、「欲を捨てて、物を所有しない」ということであった。まったくの反対である。「楽」を欲すれば欲するほど、「苦」に突っ込んでいくのかもしれない。





01:29:48 | tonbi | |

21 April

映画『靖国』から

映画『靖国』がしばらく話題になっていたが、もう一段落ついたのだろうか。テレビや週刊誌をまったく見ないので、街場の雰囲気はあまり掴めていない。ああ、またやっているな、ぐらいに思っていた。あの手の話題に関わるとなかなか収集がつかないものだ。いわゆる右であれ、左であれ、どちらも正論をぶつけ合うようなことになってしまうからだ。

映画は作品を見て映画として評価すればよい、個人的にはそう思っている。しかしそう思わない人もいるようで、作品を見ずに政治的な話題にする人がいる。そんな人と話をせざるを得なくなった。それも飲みながらである。なんとも言えない時間であった。彼の意見の内容は別にどうでもよい。僕が気になったのは、意見の内容ではなく、彼の口ぶりであった。

どうしてこの人は、為政者のような視点で話すのだろう。話ながらそんな疑問がずっーと続いた。実際、この手の話をする度に、相手が為政者の視点で語り出すのを目にし、違和感を感じてきた。とくに政治的な問題を語る時だ。多くの人が為政者のような視点で語り出す。そのような視点で語らないと、意見そのものが稚拙であると言われてしまいそうな雰囲気すら感じる。

国民の誰もが為政者的な語り方をするということは、為政者が最も望んでいることではないか、と僕は思っている。本来は統治される側の国民が、統治される側の視点で言葉を発することほど、為政者にとって都合の良いことはない。統治される側が統治する側を代弁してくれるのである。統治する側にとっては理想的な状況である。

『靖国』の話に戻そう。これを映画論ではなく、政治的な問題として議論すると厄介なことになる。いわゆる歴史認識、先の戦争についての考え方、近代国家のあり方についての是非、など厄介な問題が複合的に絡みあっているからである。実際『靖国』を政治的に語ることは、『靖国』という映画について語りたいのではなく、『靖国』をきっかけに自らの政治的意見を述べたいのではないかと思ってしまうほどだ。

僕自身、この手のことはあまり詳しくないので、出来れば黙っていたかった。それでも話しているとどうしても黙っているわけにはいかなくなる。黙っていると、ご高説を一方的に拝聴することになってしまうからだ。仕方がないので、しばし歴史問題や、近代国家についての話をすることになった。(予想通り、『靖国』の話などどこかにいってしまった。)

近代国家については根本的な疑問が1つある。近代国家というのは人類が行き着いたシステムの究極の形なのか、あるいは過渡的なシステムに過ぎないのか、である。国家の問題を考える時にいつも疑問に思うのはそのことである。近代国家が究極のシステムなら、枠組みは変えずに問題点を改善することが最善のこととなる。しかし、近代国家が過渡的なものなら、いかに問題なく近代国家を次のものに変えていくかが最大の課題になる。究極のシステムか過渡的なシステムかによってやることが大きくことになるのである。この辺りは政治家や学者先生がしっかり考えて、分かりやすく説明してもらいたい。

一般的な傾向として、いわゆる右寄りの人は、近代国家を維持する意見を述べる。例えば、1965年の日韓基本条約があるから個人請求権は放棄されるべきである、とか、戦中は日本人であったが戦後は外国人なのだから恩給はなくても仕方がない、などである。国家とはそういうものだ、そういうルールで世界は動いているのだ、とも言う。

見事に為政者的な視点である。こういう人を前にすると、有事の際には自分の身を犠牲にしてでも先頭に立ってもらいたいなあ、と思う。でも大抵の場合は、そんなことはしない。国家とはそういうものだという人は、別に国家のことを真剣に考えているわけではないからである。彼らが考えているのは、今の自分の生活である。今の自分の生活を守ってくれる限りにおいて国家を大切だといっているのだ。(そのためにはどこかで誰かが犠牲になっても仕方がない)。

結局のところ、大切なのは今の自分の生活なのである。僕はそれが悪いことだと言っているのではない。個々人が自分の生活を何よりも大切にするのは当然である。ただ、そこに為政者的な視点を持ち込んで、あたかも自分の考えが正論であり、歴史的に当然であるというように振る舞うのが不快なのである。

私は自分の生活を守りたい。それは現在の国家システムによって守られている。ただそのシステムは基本的には誰かを犠牲にすることで成り立っている。故に、私は自分の生活を守るために誰かが犠牲になることに同意しているのだ。このように考えるのが筋というものである。為政者的な視点を持ち込むことで、そのような居心地の悪さを回避することは非常に善くないことだと思う。

私たちは今あるシステムに乗っかって生きている。乗っかっているのは一部分だと感じているかもしれないが、基本的にはすべてが繋がっている。中立的な立場などないのだ。どこかに犠牲者がいれば私たちはその事態に加担していることになる。心理学者のユングはそのような私たちのあり方を「社会的であるということは、本人が思っているよりも悪をなしていることである」と言った。炯眼である。

為政者的な視点で正論を語ることと、犠牲を認めながら自分の生活を守ろうことは、表面上はそれほど違わないかもしれない。しかし、自分が正しい意見を述べていると思い込むのと、自分が他の犠牲の上で生きていることを自覚するのでは、大きな違いがある。

自分が間違ったことをしているかもしれないと思える人間はそれほど恐ろしくない。恐ろしいのは、自分のやることは正しいと思い込み、自らの行為を省みない人である。そういう人にはなりたくないものである。



23:58:00 | tonbi | |

19 April

業務連絡


ぱらぱらと本を読んでいたら、次のような文章にぶつかった。ちょっと長いが引用してみる。

 『人は見事に、自分の見たいものしか見ていない。自分の見えるようにしか見られないという大常識を、今さらながら凄いと思うのである。
 いやこれは本当に凄いこと、考えるほどに驚くべきことなのだ。あんまり当たり前なので、滅多に人は気づかないが、これは人間の認識の根本問題なのである。
 すべての人間は、自分の見たいものしか見られない。見えていないものを見たいと見ても、やっぱり見えるものを見るしかない。
 いかな聖人君子といえど、その人が世界を見る見方は、その人が世界をみる見方でしかあり得ないのである。すなわち、世界とは「その人の」せいでしかあり得ないのである。』 (ここまで引用)

確かにその通りである。僕自身、仕事柄しょっちゅうそういうことを実感させられる。複数の人から1つの出来事の話を聞いていて、まったく同じことを聞かされたことはほとんどない。大筋で似ていればよいほうだ。時には、まったく違う話を聞かされているような気がすることもある。

おそらくそれぞれの人は、自分にとっての現実を語っているのだろう。しかしそれらの話はすれ違っている。何故だろう、と考えて出てくる答えはこんなものだ。「みんなで1つのことをやっているが、それぞれ別の現実を生きている」

誰もが同じ世界に生きていながら、それぞれ別の現実を生きている。あるいは、みんなで同じ現実を生きていながら、それぞれ別の世界を生きている、と言ってみてもよい。結局、根本的なところでズレが生じているのである。

起こっている出来事は1つ。でも現実はそこに関わる人の数だけある。「1つの出来事に複数の現実」、これが私たちの日常のすがたである。当然、複数の現実の間にはギャップが生まれる。そのギャップを埋めて物事を円滑に進めていくのが、コミュニケーションの問題として浮上する。

この問題の解決の方向を決定づける2つの考え方がある。「出来事が1つであるなら、真実としての現実も1つである」という考え方である。ここからは「真実を正しく理解すること」が最重要課題となる。基本的には真実を知っている人と、真実を知らない人の2種類が存在する世界である。そして「真実」を知った者が他の人の誤解を正していくことがコミュニケーションの責務となり、そのための技法がさまざまに編み出される。

具体的な事例は、身の回りで起こっていることをちょっと見回せば、いくらでも見つけることができる。私たちの日常の世界は「真実としての現実も1つである」という考え方で構造化されているからである。試みに人と話をしてみるとよい。ほとんどの人が真理を語る口ぶりで話をしてくれるはずである。「実は、それはね、こういうことなんだよ」と。(しかし多くの場合、そこで語られるのは真実というよりも、人より先に入手した情報や、個人的な経験談や、雑学の類いであったりする)

もう1つの考え方は、「1つの出来事には無数の現実がある」ということを、そのまま認めることである。つまり「唯一の真実」などは存在しない。それぞれの人の現実は決して間違ったものではない、ただしそれは他の人に無条件で認めてもらえるような真実でもない、というものだ。

みんなで1つの出来事に関わっていながら、誰もが別々の現実を生きている。別々の現実でありながら、1つの出来事を共有しており、同じ場所、同じ時をともに過ごさねばならない。自分の現実は相手にとっては非現実的であり、相手の現実は自分にとって非現実的である。

私が真実を知っていると考える人は、間違っている人のことも理解していると思い込む。真実を知ることで、相手の誤りをいかようにも指摘できると考えるからだ。
「唯一の真実」がないところでは、そのようなことにはならない。自分の現実が自分にとって重みを持つように、相手の現実も相手にとって重みを持つ。自分の現実が正しいのと同じように、相手の現実も正しい。

相手の現実は、根源的なところでは自分とは異なった不可知なものである。しかし時と場を共にしている。そこでのコミュニケーションは尋ねることが優先される。自分とは異なる現実を生きる相手に、「あなたの現実はどんなものですか」と。そして、相手が語る言葉に耳を傾け、相手がどのような現実を生きているのかを理解する。そこには大抵、自分が見ることの出来ない現実が見いだされるはずだ。

その上で、自分の現実を相手に語る。相手が見ることの出来ない現実をうまく伝えるのだ。試行錯誤が繰り返され、多くの時間が費やされるだろう。しかし「唯一の真実」が存在しないなら、自分たちが時と場所を共有している出来事は、そのようにして作り上げていくしかない。

「唯一の真実」という考え方は、出来事を薄っぺらなものにする。たった1つの現実以外は認めないのだから、当然である。それに対して、「1つの出来事に無数の現実」というのは、出来事を厚みのある豊かなものにする。あらゆる現実が出来事に積み重ねられるからである。積み重ねる時に、大きな役割をするものの1つが、言葉のやり取りなのである。そこで語られるのはこんな言葉かもしれない。耳を澄まして注意深く聞いて欲しい。

「業務連絡、業務連絡。関係者のみなさんは集まってください。みんなで〈いま・ここ〉をより善く、より楽しい出来事にしましょう」



20:37:17 | tonbi | |

17 April

枠組みを変える


毎週末、プロボクサーの練習につき合っている。もう少し正確に言うとアドバイスをしている。そういう話をすると多くの人は「ああ、メンタル面のケアですか?」と尋ねる。ビジネス現場でカウンセラーやコーチの肩書きで仕事をしてるのだからそう言われるのは当然である。

もちろんメンタル面のケアはしている。でもそれがメインではない。どちらかと言えば技術面でのアドバイスが中心である。構え方、パンチの打ち方、姿勢の保ち方、意識の場所などかなり細かいアドバイスをしている。そして僕にはボクシングの経験はない。経験はないが、アドバイスが可能なのである。何故か。そのあたりについて書いてみる。

ボクシングにはボクシングの決まりというものがある。それは試合のルールから練習の仕方に至るまでじつにさまざまである。基本的にボクサーはボクシングという枠組みの中で練習をし、試合をし、そして優劣をつける。その枠組みの中にどっぷりつかったとすれば、僕にはほとんどやることがないだろう。ボクシングに関しては素人に毛の生えた程度だからだ。

僕がボクサーにアドバイスするためには、ボクシングという枠組みを別の枠組みに変えなければならない。どんな枠組みに変えるのか。ボクシングをボクシングではなく、「打撃により相手を倒す戦い」とするのである。

よく「視点を変えて考えてみる」という言い方をするが、枠組みを変えるというのは、それとは少し違う気がする。視点を変えると言う場合、見られているものは不変の対象として考えられている。缶ジュースを横から見れば長方形、上から見れば円というのと同じである。缶ジュースは全体としては常に同じ缶ジュースとして存在している。視点を変えるとは、ある一部分を切り取って提示することでしかない。

枠組みを変えるというのは、問題をずらすというのとも違う。問題をずらすというのは、試合で自分は判定では勝てないから、手数の多いほうを勝ちとしよう、と提案するようなものである。ボクシングとは相手に勝つもの、という肝心の部分を変えて、自分のやりやすいように問題をずらしてしまうのである。

枠組みを変え、ボクシングを「打撃により相手を倒す戦い」と定義しなおしても、全体の一部だけを切り取って提示する「視点を変える」ことや、自分のやりやすいように「問題をずらす」ことにはならない。「打撃により相手を倒す競技がボクシングである」と定義しても、まったく誤りがないからである。

しかし一般的にはボクシングをそのようには捉えていない。多くのボクサーやボクシング関係者はボクシングの試合の多くは判定で勝負がつくものと考えているからである。KO勝ちというのは狙って出来るものではなく、どちらかといえば偶然の結果という感覚に近いのである。当然、練習の体系もその考え方(=枠組み)に随って作られてくる。

しかしボクシングを「打撃により相手を倒す戦い」と定義すると考え方(=枠組み)が変わり、それによって新たなアイディアが出てくることになる。なぜなら、「打撃により相手を倒す戦い」というのは必ずしもボクシングだけではないからである。

古今東西、ボクシング以外にも「打撃により相手を倒すこと」を考えてきた格闘技はいくらでもある。そこで有効なものは、ボクシングにも有効な可能性がある。「打撃により相手を倒す」という点ではどちらも共通しているからである。僕の仕事はそういうものちょっと見てみて、それを言語化して説明した上で、身体化させるというものである。

なぜ枠組みを変えるかというと、ボクシングという枠組み内だけでやろうとすると、どうしても才能が大きな力を持ってしまうからである。動体視力がよく、反射神経がよく、質の良い筋肉を持っている黒人選手と、動体視力も悪く、いささか反応がとろく、筋肉の質も悪い日本人選手が同じ練習をしたら当然、前者の勝ちである。それをひっくり返すためにひたすら努力という手もあるが、それだと怪我をして選手生命を縮めるという危険がある。

才能の多少劣る人間でもボクシングで成功することは出来ないか、そう考えた時に行き着いたのが枠組みを変えてしまうことであった。枠組みを変えることによって、それまで見えてこなかったものが見えてくる。ボクシングを「打撃により相手を倒す戦い」に変えることで、フットワークやジャブなどの基本的な動きがまったく異なったものとして見えてくる。

私たちは、目の前には堅固な対象物が確固として存在している、と考えている。それを誤解せず正確に理解すれば事足りると考えがちである。しかし、実際のところは違う。私たちの目の前にあるのは、見る人によって姿を変えてしまうもっとファジーな「生もの」なのだ。

目の前のものがそのように見えるのは、目の前のものがそのようにあるからではなく、私が目の前のものをそのように見る枠組みを持っているからである。そう考えたほうが、日々起こっているコミュニケーションの困難さ、価値観の違いなどを理解しやすいと思う。

言い方を換えれば、枠組みを変えることが出来れば、いま自分に見えている世界もまったく別の世界として見えてくる可能性があるということだ。同じものを見ていながら、常に斬新なアイディアを出す人と、事実確認の説明しか出来ない人の違いもこのあたりにあるのではないだろうか。




00:58:35 | tonbi | |