Archive for August 2008

28 August

消費者として働く


正直言って、経済のことはよくわからない。生きるためにある程度のお金が必要であり、それを稼ぐためには仕事をせねばならず、仕事をすることが経済活動という枠組みに入る。それくらいのことはわかっている。でも、中東オイルマネーとか金融工学とか株価の乱高下などという言葉になるとピンと来ない。アクチュアリティーが感じられないのだ。

それでも、より少ないお金でより多くのものを買ったり、より少ない労力でより多くの利益を上げるのがよいことである。そんな風に経済活動が行われていることくらいは知っている。もちろん僕はその考えには無理があると思っている。何かを手に入れるにはそれに必要なコストや労力が決まっており、大切なのはいたずらに手間を省くのではなく、必要なだけの手間をきちんとかけることである。手間を省いてもダメだし、手間をかけすぎてもダメである。どちらも、別のところにしわ寄せが来るからである。

「部下が言われた仕事しかしない」というような言葉をよく聞く。ある意味、当然のことと思う。経営者や管理職が「より少ない労力でより多くの利益を得る」という考え方をしているなら、社員に対しても「より少ない給与でより多く働いてもらう」という考え方になる。そうなれば社員は「より少ない労力で、より多くの給料を手に入れる」という考えを持つことになるだろう。

すべての人間がこのように考え行動しているとは思わないが、こういう風潮が当たり前になっているような気がする。自分が欲するものをまず人に与えること、それによって自分が欲するものを手に入れることができる。そういう心性よりも、より少なく与えてより多く手に入れるという心性の方が利口と言われる昨今である。世知辛い世の中である。

そんなことを考えていたら、たまたま内田樹氏のブログ(『こんな私でよかったら』)に、どうして子どもたちは学びを拒否するようになったかについての文章があった。氏に言わせれば、子どもたちが学びを拒否するのは、子どもたちが消費者として振る舞っているからだ。その考え方は上記の僕の考え方ときわめて近い。今回は荒技で、氏のブログの文章の単語を入れ換えて書き進めていく。

社員が仕事を拒否するのは、それが消費者として当然の振る舞いだからである。経営者や上司は仕事内容の有用性や意義を社員に理解させることは出来ない。社員が「まだそれを理解できない」という当の事実こそ彼らが仕事をする第一の理由なのである。

普通はこれで話しがすむ。しかし、消費社会ではそうはいかない。社員はまず自分を消費主体として自己規定する。消費主体であるならば、社会人になりたてでも、商品についてその有用性と意義について説明を要求する「権利」があり、「義務」がある。

その商品の使途を知らない商品を購入するということは消費者には許されない。だから未熟な社員は「これは何の役に立つのですか?」と問う。「日報を書くことに何の意味があるのですか?」「手順書通りにやることに何の意味があるのですか?」。

上司はそれに答えるべきではない。いいから黙ってやりなさい、というのが上司の言うべき言葉である。というのは、上司自身、どうしてそのようなことに有用性があるのか、よくわかっていないからである。自分の教えている仕事がいったいどれだけの可能性を潜在させているのか「よくわからない」というのは経営者や上司であるための大切な条件である。

私は自分の仕事の意義と有用性と適応範囲について熟知していると嘯くような経営者や上司は「学ぶことをやめてしまった経営者・上司」である。学ぶことを止めてしまった経営者や上司から学ぶことは(不可能ではないが、たいへん)むずかしい。すぐれた経営者や上司は自分が行っているいる仕事について「自分は十分にしらない」ということをよくわきまえており、それゆえ、自分の仕事にどんな意味があるのか、いまだ確実なことが言えないでいる。

だから、「この仕事は何の役に立つんですか?」と訊かれてもはかばかしい答えが出来ない。「さあ、何だろう。私にもよくわからないね」というのがおそらく望みうる最高の回答であろう。「いいから、黙ってやりなさい」

しかし、消費主体として生き方をすでに内面化した社員はこの回答は理解不能のものである。商品を購入する時に、「売り手」がその有用性と意義を「買い手」に説明できない場合、その商品は「無価値」なものと判断される。消費主体としては、それが合理的である。無価値であれば、もとより仕事をする必要はない。社員はそう結論する。

だからといって、社員の「何の役に立つんですか?」という問いに社員にもわかる答えを処方しても、事態は少しも変わらない。それは「会社というのは、社員にもその有用性や意義がわかる商品を扱うところである」という理解に社員を導くだけである。

となれば、消費主体のその後の仕事は1つしかない。それはその商品を「最小限の対価」で手に入れるためにはどうするかを工夫する、ということである。商品を「買い叩く」ための基本は当該商品に対する欲望をできる限り示さないことである。

だから、社員は可能な限り仕事に集中せず、経営者や上司に対する敬意表現を手控え、「働きたくない」というメッセージをアピールする。それは会社に来たくないということでも、会社で行っている仕事が無意味だと思っていることでもない。(現に会社には来ているし、仕事の有用性も理解している)

彼らの関心は「どれだけそれを安い代価で手に入れるか」なのである。使用価値の高い商品をかなうかぎりの安価で手に入れる消費者が「賢い消費者」だとされているからである。だからもし仕事をする力をほとんど身に付けない状態で、より多くの給料を手に入れた社員(あるいは経営者)がいるとすれば、その社員(経営者)は「きわめてクレバーな消費者」だったということになる。

消費社会においては、より安い価格で、より良く多いものを手に入れるのが理にかなったことである。生産者はより安いコストでより多くの利益を得ることを考える。経営者はよい安い人件費でより多い利益を得ることを考える。社員は、より少ない労力でより多くの給料を手に入れようとする。

そんな社会になっているのかもしれない。でも全員がそういうわけではない。わずかではあるが見返りを期待せずに与えることのできる人たちがいる。優しい人たちだ。でもなぜか疲れている人が多い。戦場では良い人から先に倒れていくという。そういう人たちが倒れませんように。


00:44:21 | tonbi | |

24 August

パラダイム


北京オリンピックも終わろうとしている。とは言え、ほとんどオリンピックとは無縁であった。いつもと変わらぬ生活をしていたら、オリンピックと接点がほとんどなかった。おそらくテレビをつける習慣がないからだろう。今日たまたま、男子サッカーの決勝をテレビで見た。じっくりストレッチでもしようと思い、そのついでにテレビをつけたのだ。

アルゼンチンvsナイジェリア。メッシのターンとシュート時の脚の振りの速さは大したものである。メッシのアシストからの得点が決勝点となり、アルゼンチンは2大会連続の金メダル。96年アトランタ大会の決勝で敗れた相手に雪辱を果たした。

どうやら文章の入り方を間違えたようだ。別にオリンピックについて書くつもりではなかった。たまたまテレビをつけたらオリンピックをやっていた。北島が金メダルを取った後、民放で北島のCMの出演料がどのくらいであるかを云々していた。それを見てパラダイムという言葉を思いついた。そんなことを書こうと思ったのだ。

パラダイムという言葉は、もともとは「規範」「範例」を意味するが、科学史家のトーマス・クーンの著作を通じて一般に知られるようになった。言葉の概念自体があいまいで、その後、撤回されているが、その後も誤った理解のまま人口に膾炙している感がある。おおよその意味は、「時代の思考を決める大きな枠組み」というものである。

CM出演料を云々している番組を見ていて、この時代の思考を決める大きな枠組みは「金銭的な価値」だな、と思った。水泳で世界記録を出し金メダルを取る。2大会連続で金メダルを取る。そうすると巨額のお金になる。

スポーツ選手が自分の出した成績によって巨額のお金を手にすることは悪いことではない。オリンピックで金メダルをとれる人間などほんの一握りである。血のにじむような練習をくぐり抜けてきた人間達の、その中での一番である。それによって巨額のお金が得られるのは当然のことだ。

僕があまりよろしくないと思うのは、金メダルを取ることで巨額のお金を手に入れることではない。そうではなくて、金メダルを取ることのすごさを金額でしか表現も出来ないし、理解も出来ないような心性に人間がなってしまうことだ。

「北島はオリンピックで2大会連続で金メダルだよ。それも世界新で」
「それってすごいことなの?」
「すごいよ。だってCMに出演すれば1億円になるんだよ」
「1億円。それはすごい」

あらゆるものが正当に評価される。これはいい。誰からも文句は出ないであろう。
正当な評価がきちんと金銭的に反映される。これもいい。給与交渉でも胸を張って言える。
あらゆるものごとの価値は、金銭の多寡で表すことが出来る。問題はここである。

これはすぐに、金銭の多寡によってしかものごとの価値が理解できない、という事態に行き着く。そして、金銭の多寡以外の価値基準は存在しない、となる。そうなれば、原理的にはあらゆるものは金銭で手に入れることが出来るし、金銭を多く所有する人、金銭を多く手に入れられる人が価値ある人間ということになる。

というか、どうも世界はそうなりつつあるような気がする。中世では宗教的な世界観や呪術的な雰囲気がものごとの価値判断に大きな影響を持っていた。近代では時間も空間も均質化され、自然科学に見られるような合理的な思考により、あらゆる物事を判断しようと試みてきた。

現代はどうだろう。わずかな空間もわずかな時間も金銭と結びつけられる。金銭に結びついていない空間や時間は活用されていないと見做される。人間の行為もその1つ1つが金銭に置き換えられ判断される。仕事の1つ1つに値段が付けられ、専業主婦の労働価値も金銭的に表現される。あらゆるものが金銭的価値で表現できる。つまり、この時代の思考の枠組みとは「金銭的な価値」なのだ。

正当な評価が金銭的に反映されることは構わない。ただそれは、そのものごとの価値の1面しか表現しているにすぎない。そういうことをみんなできんちと確認しあう必要がある。単一の価値観にもとづいて生きるのは、ある意味では楽である。シンプルだし、迷うことが無いからである。ただ、その価値観が通用しなくなった時には総崩れする。その意味では非常に脆いものである。

事実を言えば、人やものごとの価値は金銭のみでは決して表せない。人やものごとには金銭をはみ出した部分がたくさんあるのだ。だから、人やものごとを金銭で押さえ込むことは現実的に不可能である。不可能なことを無理にやろうとすると、しっぺ返しを食らうことになる。「金銭的価値」を通さずにものごとと関わる時間って、大切だと思いませんか?






00:01:23 | tonbi | |

21 August

北海道 アイヌの木彫り

さて、北海道についての最終回。先日サミットが行われた洞爺湖の近くに昭和新山という山がある。その名の通り、昭和時代に火山活動によって突然むくむくとでき上がった山だ。目の前の有珠山とあわせて観光スポットである。昭和新山の前にはいくつもお土産店があり、その中にアイヌの木彫りの店がある。

店の入り口の横では、アイヌ人の主人がちゃぶ台くらいの台にどかっとあぐらをかいて熊がサケを捕まえている木彫りを寡黙に彫っている。観光客が目の前にいても顔を上げるでもない。ラジオから流れるオリンピックの中継は耳に入っているのだろうか。実演販売といえば実演販売なのだが、何となく彫っている主人そのものが見せ物のように見えなくもない。何となく引っかかるものを感じた。

もしかすると、10年ほど前に北海道を旅行した時、美幌峠で見たアイヌの酋長を思い出したからかもしれない。美幌峠のお土産店の前には、年老いているが背筋をしっかりと伸ばし、アイヌの衣装を着た酋長がきれいな目で遠くを眺めていた。空は青く、山々は果てしない。酋長の横には、50代くらいのパンチパーマをかけた男が、だらっとした感じで小さな折畳みイスに座って煙草をふかしている。

2人の前には「アイヌの酋長と写真を撮りませんか。1枚300円。カメラは自分のもので」と書いた段ボール紙がおいてあった。これを見た時、何だかやるせない気がした。パンチパーマのおやじがアイヌの酋長を見せ物にして商売をしている。きっと儲けの大部分はパンチパーマの男が持っていくに違いない。搾取である。あるいは僕の思い込みかもしれない。アイヌの酋長とパンチパーマの男は、きちんとしたマーケティングのものと販売戦略を立てて、お互いに役割分担をし、経済活動を行っているのかもしれない。

そんな記憶がふっと沸き上がり、一瞬、何か引っかかる感じがしたのだろう。しかし近くにパンチパーマの男はいない。いるのは優しそうな奥さんだけである。煙草もふかさず、分厚い新潮文庫を手にしている。僕は、時間をかけてゆっくりと店内を見る。熊やフクロウ、ニポポ人形などのほか、七福神や観音様などの彫り物もたくさんある。2、3お土産を買い、奥さんと少し話しをする。

七福神や観音様はどう考えても昔からのアイヌの彫り物とは思えない。やはり伝統的な彫り物といえば熊やフクロウなどですか、と尋ねる。すると、いえいえ、もともとアイヌでは熊は彫っていなかった。熊は神聖な生き物なのでそれを彫るのは失礼にあたるのです、という。アイヌの彫り物といえば、装身具などに彫る模様が基本だった。ナイフのケースなどに直線や曲線でバランスをとりながら模様を彫っていくのだ。

近代以降、和人がやってきて、熊の彫り物の需要があるので、それで彫っているのです、と言う。「和人」という言葉の響きにドキッとした。一瞬、外国にいる気がした。アイヌから見れば僕も和人だからだ。一方で僕も彼らも日本国籍を持つ同じ日本人だが、もう一方では僕は和人であり彼らはアイヌである。

日本社会でアイヌとして生きるということはどういうことなのだろう。そんな疑問が頭に浮かぶ。もちろん、僕は日本人である前に一個人として自分を捉えている。その意味では、アイヌであっても基本は一個人である。しかし、圧倒的なマイノリティーで生きるというのはそれほど簡単なことではない。マジョリティーであることは、自分が何者であるかを説明する必要がないということである。マイノリティーは常に自らのアイデンティティーが問われることになる。

彼らのアイデンティティーはどこにあるのだろう。そう思い、台の上の主人を見ていると複雑な思いに駆られる。手元では熊の彫り物が完成に近づいている。相変わらず一心不乱である。自らのアイデンティティーを確認するように彫っているのだろうか。自分が紛れもないアイヌであることを確認しているのだろうか。その一彫り、一彫りが重く感じられる。

「北島100メートル金メダル」という声がラジオから聞こえてきたのは、そんな時である。主人は笑顔で顔を上げ、「おい、北島金メダルだってよ」と奥さんに嬉しそうな声で話しかける。「へぇ〜、すごいわね」奥さんも明るい声で応える。北島、身内感覚である。僕以上に。

日本人、アイヌ。難しいことはよくわからないが、あなた達が北島と何かを共有していることはよくわかりました。アイデンティティーの問題は複雑である。そんなわけで僕はいま『アイヌの歴史』という本を読んでいます。

(ウルトラマラソン準備完了まであと2631km)
01:08:12 | tonbi | |

17 August

北海道 暴飲暴食、鮮(すく)なし仁


「暴飲暴食、鮮(すく)なし仁」。そろそろ昼ご飯を抜かなければ、そう思っていた矢先に僕の奥さんの口から出た言葉だ。名言である。そう、話しはまだまだ北海道、ルスツリゾートである。こういう宿泊と食事がきちんとセットされているところに行くと、どうしても食べ過ぎになりがちだ。とくにそれなりに料金をしっかり取っているところだとなおさらである。

朝食は和食であれ、洋食であれ、折衷であれ、大抵バイキング形式になっている。日常的にも朝はバランスよくしっかり食べるようにしているので、ぱくぱく食べてしまう。「ああ、お腹いっぱい」。そしてわずか数時間で昼食である。いつもなら昼食は軽く摘む程度か、まったく抜いてしまう。少なくとも、週に2回はまったく食べないようにしている。周期的にお腹を空っぽにしたほうが体調も良いし、空腹感を忘れずにすむからだ。

空腹感を忘れないでいることは、この過食気味の社会では大切なことだ。個人的にはそう思っている。食べるものが無くお腹を空かせている人を忘れずにすむ。食べ物を無駄にできなくなる。いま自分が食べ物に不自由していないことをありがたく思えるようになる。それと、味覚が鋭くなるので、本当においしいものを食べた時に、すごくおいしく感じられる。

それ以外にも理由がある。僕は普通に食べていても、多少、肉のつきやすい体質である。おまけに多少、筋肉質である。だから2、3日続けて「ああ、お腹いっばい」という食べ方をすると、ランナー基準では要ダイエットの範疇にあっという間に入ってしまう。フルマラソンの世界では、体重1kg落とせばタイムが3分縮まるという。それに膝の古傷のためにも体重は軽いほうがよい。

とはいえ、親戚が集まるような時に、自分だけ食べません、というのも言いにくいものである。ついつい昼食もしっかり食べてしまう。「ああ、お腹いっぱい」。そして数時間すると夕食である。しっかりしたコース料理である。お酒を嗜みながら北海道の幸(?)をぱくばくと食べる。「ああ、お腹いっぱい」。

そんなことを繰り返していると、さすがにお腹の方がマヒしてくる。お腹に食べ物が残っているのにも関わらず、空腹を感じるようになってくるのだ。こうなると、いつも満腹感を味わっていないと気が済まなくなる。危険な段階にさしかかっていた。そんな時「暴飲暴食、鮮(すく)なし仁」という言葉である。

この言葉は『論語』の「巧言令色、鮮(すく)なし仁」をもじったものである。「口先だけでぺらぺらと上手いことを言い、どっかで習ったような笑顔でそつなく接するような人間は、仁が少ないよね」ということである。「仁」というのは、『論語』でも非常に重要な言葉だけれども、明確に定義されていないが、まあ「人を思いやる心」と言ったところである。

言葉の響きのよさから「暴飲暴食、鮮(すく)なし仁」を口にしていたのだが、よく考えると思ったより深い意味があるし、現在の社会を正確に言い当てている。朝食も昼食も夕食も、食べきれないくらいの量がある。特にバイキングなどでは残すことが当たり前という感じである。無理してでも食べなければ損、という感じで食べいてる人たちもいる。

いくつもの皿に、肉やら肉やら肉やら、ケーキやらケーキやらケーキやらを載せ、テーブル一杯に並べる。そして平気で食べ残していく。国内的にも世界的にも食料不足の現在においてだ。これが「人を思いやる心」をもった行為だろうか。自分でお金を払ったのだから、好きにやらせてもらいます。そういう考えもあるだろう。が、少なくともそれは「仁」ではない。そして自分のやっていることはいずれ自分に戻ってくる。あるいは自分の子どもたちに。食べ物そのものが不足すれば、お金を出しても食べ物は手に入らない。少ない食べ物を皆でシェアできること、それが「人を思いやる心」ではないか。

いずせにせよ、暴飲暴食は控えよと思う。「暴飲暴食、鮮(すく)なし仁」。バイキング会場の壁に貼っておくとよいかもしれない。




21:04:18 | tonbi | |

15 August

北海道 旅先ランニング


北海道、ルスツリゾート。そこがどのような場所か、前回のブログでおおよその感じは伝わったと思う。とはいえ、そこは北海道。リゾートを1歩出れば、青い空と緑の木々がくっきりとコントラストを作り出し、風は静かに流れている。

リゾートに到着して、僕がまず行ったのは、ランニングである。隣のサーカステントから流れる音楽を聞きながら、短パンにTシャツに着替え、新しいランニング用のシューズを履く。中学1年の姪っ子が一緒に走るというので、30分ほどゆっくりとランニングをする。

旅先でも走ることにしよう。旅行の前にそう思った。そうしないと目標の走行距離が達成できないという現実的な理由もあるが、いろんな場所を走ってみたいという純粋な好奇心の方が強かった。自分のスピード、とでも言うのだろうか。誰もがそんなものを持っている気がする。僕にとっては、おそらくそれはランニングのスピードなのだろう。

目にすること、耳に聞こえること、肌で感じること、匂い、そして考えたこと。走っていると、そんなものが自分の中に不思議と残る。そして別の時に別の場所を走っていると、ふと、それらが繋がったりする。北海道で走りながら、河口湖マラソンと繋がったりする。そういう時「なんだか果てしないな」という呆けたような心地よさを感じる。

リゾート内の人混みの中を走り始める。当然、奇妙な目で見られる。アミューズメントパークに来ているのに、わざわざそこから抜け出してランニングしているなんておかしな人もいるものだ。きっとそう思っているのだろう。最短距離で裏の駐車場を抜けると、施設内の裏道にもう人はいない。

背の高い木々が風に揺れている。関東近県に比べて北海道の木は背が高く、そして細目である。そこに白樺などが混ざっていると、何となくスマートな感じがする。一面の原っぱはきれいな緑の草と黄色いタンポポが風に揺れている。わが家の近くのタンポポとは別種なのか、茎が細く、枝分かれしている。花は小振りで可憐と言えなくもない。

そんなものを眺めながら、風を肌に感じ、ランニングする。姪っ子といろいろ話しながら。姪っ子の言葉も自然の一部に溶け込み、不思議と気にならない。一般道路をしばらく走る。北海道らしいまっすぐな道だ。時おり、車が横を通りすぎる。通り過ぎた時だけ排気ガスの臭いがする。空気がきれいなのだ。

まっすぐな道を時計を眺めながらまっすぐ走る。そしてUターンしてまっすぐな道をまっすぐ走って帰る。Uターンすると西日が正面から照らす。東京の余熱いっぱいの西日ではない。やさしい暖かさを感じさせる西日だ。緩い風も正面から吹いてくる。西日の暖かさと少し冷たい風が心地よく肌に触れる。

いつかきっと、この景色、この風、この匂い、この光、そんなものを思い出すのだろう。どこか別のところを走りながら。走りながらそう思った。旅先で走るのも悪くない。





12:47:34 | tonbi | |