Archive for September 2008

27 September

何も期待せず


「人は関わりのある人間としか仲良くなれないし、人は関わりのある人間としか争えない」当たり前の話しと言えば、当たり前である。相手の名前どころか、その存在も知らないような人間と誰が仲良くなったり、争ったりできるだろうか。

私たちはいつだって関わりのある人間と一緒に生活している。ということは、そこには常に仲良くなる可能性と争う可能性があることになる。もちろん、仲良くもならず、争いもせず、適当に距離をとった当たり障りのない関わりというのもある。

しかし、こう言い換えることも出来る。私たちの人との関わり方はトラブルがあるかトラブルがないかのどちらかである、と。で、放っておくとどうなるかと言うと、大抵はトラブルが生じる。何の気遣いもせず思うままに振る舞っていたら人間感性が本当に上手くいった、という話しはあまり聞かない。大抵は、トラブルが生じるものである。

原因はいくつもあるだろうが、2つのことを挙げてみる。1つは人は孤独に弱いということ。そしてもう1つは人に期待をするということである。孤独に弱いということは、他人を求めることにつながる。それも自分の孤独を解消してくれるための他人である。つまり自分のための相手である。そこには相手との潜在的なズレが常に存在する。独りでいればトラブルなど起こらないのに、そんな風に人と関わってしまうので、ふとしたきっかけでトラブルが生じることになる。

人に期待するというのは、私たちに刻み込まれた厄介な傾向である。何を期待するのか。このままの自分を受け入れて欲しいということを期待する。このままの自分というのは、物理的な存在としての人間ではない。自分の考えている世界、自分の見ている世界を受け入れて欲しいということになる。それは結局のところ、私の思っているような世界、他人を求めることになる。つまり、私の思うようなあなたであって欲しいということになる。

孤独に耐えられない人たちが、自分の思う通りに相手が振る舞うことを求めて、人と関わるのである。トラブルが生じないわけがない。先日もたまたまそういった場所に同席することになった。それぞれの人が自分の思いをもって意見を交換しているのだが、言い争いといえるような状態になってしまった。厄介なのは、どちらも自分が良いと思うことを主張し、自分の意見と違う相手を間違っていると見做していることだ。

一方には明確に正義があり、もう一方には明確に悪がある。自分は正義に対して悪を行おうとするものである。そういう図式のトラブルなどは現実的にはほとんどない。自分が正しく相手が間違っている、大抵はお互いがそう思って、相互にやり取りしている。間違っている相手を正そうとすら思っているのである。正された方はたまったものではない。間違っている相手に自分の正しい考えが否定されるのである。当然、やり取りはどんどんひどくなる。

こんな場所に同席させてすみませんね、気を利かせた第3者からそんな言葉をもらう。いえいえ、人と人が集まればトラブルが起こるのは当然ですよ。トラブルが起こらないほうが不思議なくらいです。特に意識せずそう答えた。答えてしまってから、そうか僕は人が関わればトラブルが起こるのは当たり前だと思っているのだ、と改めて気づかされた。

確かに昔から人が関わればトラブルが起こるということは頭では理解していた。しかし実際そういう場面にいると本当にうんざりした。今回はぜんぜん平気であった。おそらく頭だけの理解ではなくなったのだろう。トラブルが起きないことを期待していないのである。なぜなら、トラブルが起こるのは当然のことだからである。起こるべきことが起きた時に失望は存在しない。必ず起こることを起こって欲しくないと無茶な期待するから、期待に裏切られるのである。そして失望や落胆をしたり、不平不満を言ったり、人を恨んだりする。

期待しないなどというと未来に向かった肯定的な感じがなく、悲観的な意見のように聞こえるかもしれない。が、実際は違う。期待とは現実の実際とは異なる現実を求めることである。期待しないというのは現実の実際に自らを随わせることである。だからトラブルが生じても失望や落胆はしない。実際に則して自分に出来ることをするのである。期待しないがゆえにポジティブかつ楽観的で、希望に満ちているのである。

期待が現実の実際とは異なった現実を求めるのに対して、希望とは現実に随いながらそれをより善くしたいと振る舞うことだからである。




00:53:40 | tonbi | |

22 September

鍛練

昨日の日曜日は小学2年生の長男の運動会だった。本当ならば土曜日のはずだったが、台風の影響を予測して金曜日の時点で日曜日への変更を決定した。午前中はそこそこプログラム通りに進行したが、11時過ぎには雨が降りはじめる。雨足はどんどん強くなり、結局、そこで中止。残りのプログラムは水曜日に実施とのこと。天気の影響とはいえ、運動会を途中でストップして、2日に分けて実施するというのには不思議な感じがした。時間がないから、今日の風呂は上半身だけ洗い、下半身は明日ね、という感じである。

20日までに160kmランニングをした。非常によいペースである。このままがんばれば250kmも可能かと思ったら、土曜日の夕方から口唇ヘルペスの症状が現れる。ストレス、疲労、日焼けなどが主な原因である。ストレスとは無縁の日常なので、ランニングによる疲労と、ランニングによる日焼けが原因だろう。体調を悪化させ家族に迷惑をかけるとまずいので、数日は体を休めようと思う。

世の中には「偉い人たち」がいる。もちろん僕の主観的な判断に基づくものだ。時折、そういう人たちの言葉に(あるいはそういう人たちについて語った言葉に)ぐさっとやられては、刹那、深く反省し、けろっと忘れる。しばらくして、またぐさりとやられる。そんな日々を過ごしている。で、近ごろデスクトップには「偉い人たち」というフォルダをおくことにした。

先日、イチローが200本安打を達成したときのコメント。「どんな苦しいときでも、あきらめようとする自分がいなかった。その時のベストを尽くそうという自分が、いつもいた」。あきらめようとする自分、という言い方がいい。自分の中にそういう存在がいるということを客観的に見れている人の言葉遣いである。あきらめることが習い性になっているような人間からはこういう言葉は出てこない。

先日、津本陽の『孤塁の名人』という本を読んだ。大東流合気柔術の達人、佐川義幸について書いたものだ。その中に独自の体の鍛練について触れた部分がある。佐川さんは独自の体の鍛練を24通り持っているそうで、その中に重さ2kgほどの八角棒の素振りというものがある。なんと年間に30万回振るそうである。年間30万回ということは1日800回以上である。その回数も大したものであるが、それに対する佐川さんの言葉もすごい。年間30万回の素振りを30年、40年と続けて、鍛練の効果がようやくわかってくる、というものだ。

結果が見えていない行為を、30年、40年続ける。そういうことがこのご時世で可能なのかと思ってしまう。なるべく早く効果を出すことが要求される昨今である。まあ無理だろうな、そう思ってふと思い直す。人が数十年生きるという行為が、それではないかと。私たちは産まれてから死ぬまで自分を生きている。平均的には数十年は生きている。生きることの結果は形式的には「死」であるが、私たちが問うてしまう結果とは人生の「内容」である。

逆説的ではあるが、長い時間にわたり結果の見えない行為を行い、そこで素晴らしい「内容」を導き出すためには、「形式」を大事せねばならない。佐川さんは24通りの鍛練を何十年も続けることによって達人の域に達した。イチローが日常生活も含めて「形式」を重視していることは周知の事実である。やはり決めたことをやり続けることが必要なのだ。そんなことを、口唇ヘルペスでランニングを一時中断している人間が書いているのだから、いい加減なものである。
11:03:27 | tonbi | |

17 September

石内都の『ひろしま』

石内都の『ひろしま』という写真集を見た。広島平和祈念資料館に保管されている1万9000点の被爆死した人の遺品と被爆した品物の中から、肌身に直接触れた品物を中心に撮影した写真を集めたものだ。ワンピース、女学生の上衣、シュミーズ、ブラウス、防空ずきん、ズボン、肌着、化粧水ビン、櫛、眼鏡、腕時計。それらが焼け焦げ、破れ、ちぎれ、ボロボロになり、とけ、変形している。

本来、それらは被爆の痛ましい瞬間が凝縮された悲惨なものたちだ。たとえば、ある女学生の上衣。襟のあたりと左胸の部分が服としての原形をわずかにとどめる程度で、あとはボロボロにちぎれている。女学生は広島市内の動員先の建物疎開作業所で被爆したらしく、遺骨すら見つからなかったが、母が和服の生地を使って仕立ててやった上衣だけがボロボロになって近くの橋に引っかかっていたものである。

そういった悲惨さを刻印されたような遺品ばかりである。でも何故か、見ていて美しい写真だと思ってしまった。最初、毎日新聞で白黒の写真を見た時は、川久保玲のデザインかと思ったくらいだ。そして美しいと思ってしまったことに後ろめたさを感じた。でもよく見るとやはり美しい。なぜ美しいのだろうと考えてみた。

そして思い至った。この写真は、被爆の遺品として悲惨な時にだけ縛られているものたちを、そこから開放しようとしているのだ、と。原爆の悲惨さを伝えるものとして残されているものたち。しかし、そのものたちは被爆の瞬間のみに存在しているのではなかったはずだ。これらの写真はそれらのものたちにも被爆の瞬間以外があったことを伝えようとしているのではないだろうか。

悲惨な被爆の瞬間からそれらのものたちを解き放つ。それはある意味「救い」である。焼けただれボロボロになったワンピース。私たちの目の前に残されているのはそんな姿だけだ。そして私たちはそのワンピースを悲惨さのみを現すものとして受け止めてしまう。

しかし、そのワンピースにも被爆の時以外の長い時があったはずだ。暑い日差しの中、友だちと笑いながら田舎道を歩いていた元気な女の子が身に付けていたワンピースかもしれない。雨の中、病気の祖母を病院に見舞いに行く時に身に付けていたワンピースかもしれない。夏の夕暮、美しい少女が想いをよせた人と将来を思いながら橋を渡る、そんな時に身に付けられていたワンピースかもしれない。

被爆の瞬間を刻印したさまざまな遺品、それらすべてが被爆の瞬間以外の時を持っている。そんな時を写し出している。だからこそ、これらの写真は美しいのだろう。

写真は一瞬を切り取るものだ。だがそれは全体から一部分を切り取って固定化させるものではないのだろう。良い写真は、全体から一部を切り取り、はっきりと写し出すことで、そこを入り口としてより広い時空との繋がりを思い出させるものなのだろう。

言葉も同じである。言葉というのはこの世界から一部分を切り取り限定し、その動きをとめる働きをする。しかし、言葉がさまざまなものごとを世界から切り離し、それらを孤独な状態に置き去りにするのであれば、それはダメな言葉である。良い言葉とは、この無限に広がる時空のある一点を切り取り、その輪郭を明らかにすることで、同時にその言葉が入り口となって、無限の時空への繋がりを確認させるようなものである。

そして人も同じである。良くない状態の人は世界から切り離され孤独に置き去りにされ、その人と接する人たちを同じような良くない状態にする。良い人は世界の中で輪郭をはっきりさせることで世界との繋がりを確認し、自らが関わる人たちの輪郭もはっきりさせ、そこを起点に無限の時空との繋がりを思い出させるものである。誰もそういうことを言わないと思うが、仏教ではそういう良い人を「菩薩」と呼んでいる。
01:38:54 | tonbi | |

15 September

「構造」と「廻向」

昨日、墓参りに行ってきた。埼玉県の東松山市まで。道沿いには田んぼが広がる。稲穂が頭を垂れるようにきれいに並んでいた。ずっと向こうまで、黄色い草波が風に揺れている。暑い日々ではあるが、秋は確実にやってきている。

とは言え、暑い日々。そんな中、今月はひたすらランニングである。15日現在で130km。このまま行けば250kmも不可能ではない。が、このまま行ける可能性はそれほど高くないだろう。何となく、経験的にそれくらいのことは分かるようになってきた。

エアーサロンパス、栄養ドリンク、自家製クエン酸飲料、水風呂でのアイシング。ほぼ毎日、この4点セットの世話になっている。朝、目覚めの言葉は「疲れた」。電車での座席でも眠ってしまう。夏にさぼったツケを払わされている感じだ。何とか、今月中には体を作り直し、この先のトレーニングに耐えられるようにしたい。

当然、本を読むペースも落ちてきた。そんな中、先日、中沢新一の『ミクロコスモス?』を読んだ。その中に『孤独な構造主義者の夢想』という文章があった。レヴィ=ストロースについて書いたものである。レヴィ=ストロースは構造主義の思想家である。構造主義とは、数学、言語学、精神分析学、文芸評論、文化人類学などにおいて、何らかの形で構造を重視する立場である。1960年代に流行した思想で、クロード・レヴィ=ストロース、ジャック・ラカン、ミッシェル・フーコー、ロラン・バルトが構造主義の四天王と呼ばれたりした。

どの人の本も持っている。20年近く前に買ったものもある。近ごろ買ったものもある。しっかり読んだ(つもりの)ものもあれば、斜め読みしたものもある。買ったままになっているものもある。いずれにせよ、人に分かりやすく説明できるほど構造主義を理解していない。で、中沢氏がレヴィ=ストロースの「構造」について語っている部分をいくつか引用する。

『レヴィ=ストロースの構造主義は、自然と文化のインターフェース上で働いている知性に、焦点を合わせる。物質でも精神でもなく、物質でも精神でもあるこの知性の働きこそが「構造」の意味するものである。』

『「構造」は、物質と精神、内部と外界、端末の神経組織と大脳の組織、あるいは自然と人間の文化などの対立を超越したところにあらわれてくる知性作用なのである。』

『彼の「構造」は単なる文化コードではない。それは、自然と文化のインターフェース上に働く自然智のコードだ。そのために、「構造」は弁別的知性の上で働いていないことになるので、当然それは「無意識」の働きということになる。』

『自然には「構造的特性」をもったある種の知性の働きが内在していて、その働きは理解力が現実の世界の構造を探り当てるために用いているさまざまなカテゴリーと、同じ本質をもち、ときにははるかに豊かな内容を持つ』


中沢氏が何を言っているのかというと、「構造」というのは主客の二分を前提とした世界の話ではないよ、ということである。何かを「分かる」という時、私たちはまず主体としての自分と対象の世界を二分する。そして主体が対象をさらに細分化し、体系化することで1つのまとまった世界として理解する。

このように主体が対象を捉えるときにも、対象世界には「構造」のようなものが見える。しかし、中沢氏はこのような「構造」は、レヴィ=ストロースの『構造」とはまったく異なったものだと言う。レヴィ=ストロースの「構造」とは、主体と対象を「分けない」ところに現れてくる知的な働きのことである、と。

構造主義はよく分からないが、これは僕が仏教の言葉で考えている「功徳」と同じである。仏教では私たちが主体と対象を二分した上で、さらに対象を細分化し、構造化する理解の仕方を「分別」と呼ぶ。「分別」、「分」も「別」もどちらも「わける」という言葉である。「わける」とは「わかる」である。人間には何かを理解しようとする時、それを「分ける」ことで理解しようとする抜き差しがたい傾向がある。

このように「分別」によって構造化された世界を「妄念の境界」と『大乗起信論』などでは呼んでいる。私たちは誰もが、自分の「分別」によって構造化された「妄念の境界」にしがみつきながら生きている。そのようなありようを「無明」とも「迷」とも「凡夫」とも言う。主客の二分の上に成り立つ「妄念の世界」になぜしがみつくのかと言えば(あるいは、「凡夫である自分」をなぜ変えたくないのかと言えば)、それ以外の世界(あるいは自分)など存在しないと思っているからである。それを失うことは底抜けの「無」へ吸い込まれることを思わせるからである。

唯一、確実に存在するのは「妄念の世界」とそれを見ている「私」のみである。しかしそのような「妄念の世界」や「私」は、盤石なものとして「有る」わけじゃないよ。そういうとき、仏教では「空」と言う。「妄念の世界」も「私」も「空」である、一切のあらゆるものごとは「空」である、と。

対象を細分化し構造化する「私」、私により細分化され構造化された「世界」、そのようなものは「空」である。このとき、否定されているのは「世界そのもの」ではなく、「主体と対象を二分し、さらに細分化する」ことである。つまり、「分別」であり、分別により「わかる」ことである。つまり私たちが当たり前に用いている理解の方法である。

主体と対象を分ける「分別」を行わずに世界との繋がりを確認するものを仏教では「智慧」という。この智慧は「私」に属する能力ではない。なぜなら主体と対象が「分かれていない」ことにより顕れるものであるからだ。智慧は主体に限定されないものであるから、世界そのものが智慧のはたらく場ということになる。

まさにレヴィ=ストロースの「構造」と、構造的に同じである。ちなみに『大乗起信論』という書物では、智慧のはたらく性質を「不空」と呼び、「すでに法体は空にして妄なきを顕すが故に、即ちこれ、真心常恒不変淨法満足なり」と説明する。

「真心常恒不変淨法満足」、すごい言葉である。はっきり言って、意味不明である。この言葉がきちんと理解できていれば、「君も覚者(ブッダ)だね」と言えるくらいである。当然、僕にはその正確な内容を伝えることは出来ない。ただ、主体と対象を分けることにより世界を理解することをやめると、それまでとは違った世界が立ち現れてくる、という枠組みが示されていることは理解できる。

違った世界とは言うが、もちろん、その世界は昨日までと同じ世界である。なんら変わらぬ日常が繰り返されるはずである。にもかかわらず、そこは昨日までとは全く異なった世界にもなる。「分別」により構造化された妄念の境界でないからである。

実際、空海の密教以降、日本の仏教においては、「分別によらない世界」をどのように語るかが1つの課題であったのではないか、そう個人的には思っている。分別と分別による妄念の境界をどのようにクリアするかに重きをおくと、その言説は否定的になる。(妄念の)世界は虚妄である、とか。一方、分別によらない世界を積極的に描こうとすれば、世界は肯定的に語られることになる。そしい、その極みが天台本覚論ということになる。

たとえば、鎌倉時代の仏教者に親鸞という人がいる。親鸞と言えば浄土真宗の開祖である。浄土真宗と言えば「他力本願」の言葉で知られる宗派である。親鸞は主体と対象を分ける「分別」を離れたところに現れる世界を、「廻向」という言葉で語っている。「廻向」を別の言葉で言えば他力本願の「他力」である。「他力」の「他」とは「阿弥陀」のことである。つまり、私たちが分別を離れたところに現れてくるのは「阿弥陀の力」の満ちた世界ということになる。

親鸞に言わせれば、この世界は常に「他力」に満ちあふれている。それがわからないのは、私たちが「自力」を働かせているからである。自力とは「わたくしのはからい」である。それは、自分の欲望である。欲望とは、主体と対象を二分化し、自分が世界を欲するあり方である。自分の思い通りに世界を生きようとすることである。

主体と対象を二分する。自分と他者を分ける。分けると同時に、どういうわけだか、対象や他者に欲望を抱くようになってしまうのが人間と言う生き物である。自分の思うようにしたい、なってほしい。自分が接するあらゆるものにそういう欲望や期待を持つ。そういうものとして世界を構造化する。そういう欲望や期待を持つ生き物たちがさまざまな形で関わり合う。

レヴィ=ストロースの「構造」も、親鸞の「廻向」もそれとは違う世界のすがたを描こうとしている。そしてその世界は、「いま・ここ・わたし」と別にあるのではない。「いま・ここ」に「わたし」とともにある。世界はそのことをつねに私たちに気づかせようとしてくれている。それこそが「阿弥陀の力」であ、「他力」である。少なくとも親鸞はそう言っている。

どのようにか?私たちの欲望が達成されないこと、私たちが淡い期待に裏切られ続けること、によってである。「分別」による世界が欲望や期待を生じさせ、私たちはそれを追い求めるようにして生きる。しかし、それは(一時的な場合を除いては)満たされることはない。その満たされないという事実を、私たちに突きつけてくれる、それことが「他力」であり「阿弥陀の力」である。そしてそれは私たちの日常の当たり前の事実でもある。

近代とは、主客二分により対象世界を理解し、技術的に操作することを徹底的に追求した世界である。基本的には現代もその延長線上に有る。そして現代とは欲望が細分化されながら肥大化した時代でもある。あらゆる思考が資本主義経済のもとに欲望追求に総動員される。そういう世界がどこに行くのか、どのくらい長続きするのか、追求している人たちは考えているのだろうか。そういうあり方が人間にどれほどの負担を強いるものか、考えているのだろうか。

そういうことを考えるのも面白いのだが、そのレースに乗る気分にはどうしてもなれない。どちらかというと「構造」とか「廻向」とかを考えている方が性に合っているようである。今月の後半も、走りながらいろいろ考えよう。




21:02:48 | tonbi | |

08 September

『こころ』を読んで妄想する


ふと、気づいたら、しばらくブログを書いていなかった。なるべく日々書こうとは思っているのだが、いつの間にか忘れていた。仕事、ランニング、合気道、ブログ、研究。一応、常に意識しているのはこの5つだ。だが、現実的には3つくらいで精いっぱいだ。

で、いま旬の3つは、仕事と合気道とランニングである。仕事では今月からクライアントの会社で「基礎研修」なるものを始めた。合気道はだんだんと手応えを感じてきた。道場の人間が入門用のDVDを貸してくれたので、それを見てはイメージトレーニングの毎日である。

そして先月ひどかったランニングである。今月はすでに76km走った。すでに先月の総距離を超えている。順調である。今日も昼休みに1時間ほど土手を走る。日差しは強かったが、空気が少しずつ冷えている。空を見上げると、入道雲と秋の雲が一緒に見える。道端にはクヌギの実やマテバシイの実(?)が落ちている。少しずつ、秋が近づいているのだろう。

と、ここまで書いて、手が止まる。それはそうである。ブログのことを忘れていたのだから。

あまり書く事もないので、夏目漱石の『こころ』について思ったところを書く。文学を読みたいと思い、先日、発作的に『こころ』を手にした。20年ぶりくらいの読み直しだ。ストーリーは記憶の通りだったが、読み直してみて新たに見えてくるところがあった。

(勝手な思い込みの)結論から書く。漱石は『こころ』のなかで「私」という言葉を上手く使うことで、主人公と先生と読者をうまく重ね合わせようとしたのではないか。その重ね合わされた部分こそ「こころ」というところではないだろうか。そんなことを思ったのである。

漱石の作品を全部読んだわけではない。読んでいる作品についてもそれほど熱心な読者というわけでもない。それでも、僕が思い出せる限り、漱石の主人公が「私」であるものはあまりなかった気がする。

『三四郎』の三四郎、『それから』の代助、『門』の宗助、『明暗』の津田。ざっと思いつくだけでも主人公はみな「私」ではない。『わが輩は猫である』は確かに猫が「わが輩」を名乗っているが、主人公として振る舞うのは冒頭のみで、後は場面を切り取るカメラのような役割しかしていない。『坑夫』の視点が一人称的だったと記憶しているが、『こころ』とはかなり性格の違う小説である。

『こころ』は、「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の三部構成になっている。最初の二部で「私」を名乗っているのは、地方から出てきた大学生である。ふとしたきっかけから、鎌倉での海水浴で先生と知り合いになり、魅かれていくことになる。

しかし先生は人に言えない過去を持っている。主人公の「私」は先生と親しくなればなるほど、その過去を知りたいと望むようになる。先生はいずれ「私」に自分の過去を話すと約束する。ちょうどそのころ田舎で主人公の父親が倒れ、死へ一歩、一歩向かっていく時期を迎える。「私」は田舎に帰り、父親の看病をする。

父親がまさに危篤に陥った時、先生から長い手紙が届く。その手紙が『こころ』の「先生と遺書」に当たる部分である。そしてその遺書の中で、先生は自分の過去の出来事をすべて明かす。その時、遺書の中の出来事の主人公は学生時代の先生であり、そこでは一人称の「私」が使われている。

まず、「先生と私」「両親と私」の主人公である「私」は、あまりはっきりとした描写がされていないように感じる。肉体的な感じが強く全面に押し出される表現もないし、自分の考えや感情を積極的に語る場面もない。あくまで、先生や両親とのやり取りの中で、「私」は受動的に自分を表現している。ただ、漱石がさすがなのは、受動的でありながらも「私」がどのような人間なのか、その輪郭がはっきり読み取れるようになっていることだ。

どんな人間なのか。一言で言ってしまえば、それは世界と違和感を感じている若者ということになる。表面上は何も問題がない。でも何かズレている。当時の最先端の東京での学問の世界にもしっくりしていない。自分のルーツである田舎の家族にもしっくりしていない。そんな「私」の輪郭を、先生という人間に魅かれているという事実によって見事に描いている。(実際、先生は東京での最先端の学問とも、親族とも絶縁している)。

さらに、世界との違和感を内容ではなく輪郭で描くことで、多くの読者を取り込むことが出来る。世界との違和感というのは、誰もが1度は感じることだからだ。(「ああ、ここに自分のことが書いてある」と読者は読み込むことが出来る)。

そして「先生と遺書」では、先生が「私」を名乗って物語が展開する。この「私」は自分の考えや感情をはっきりと表す。(物語の中の登場人物の間では考えや感情を押し殺してはいるが、遺書という形で学生の「私」や読者には考えや感情を表す)。そして物語の中心は、金銭問題で自分を裏切る親族とのやりとりであり、恋愛であり、友情であり、友情と恋愛が錯綜することによる裏切り、そして友人の自殺である。「私」の感情や考えが、これらの物語の中で明らかにされることになる。

「先生と私」「両親と私」における「大学生=私」は世界に違和感を持つ輪郭のみが示された若者であった。そして輪郭のみであるが故に、読者が自分を重ね合わせることも可能であった。「先生と遺書」の「先生=私」は、金銭問題、親族問題、恋愛、友情、裏切りという物語を通して、自分の感情や考えをあらわにする。ここでは、「私」の輪郭よりも「私」の中身が語られているのである。

そして「大学生=私」も「先生=私」もどちらも「私」と書かれている。読み進めているうちに、結局のところ「私」というのは「私」しかいないような気がしてくるのだ。それにより「先生=私」はもう一度「大学生」としてやり直せそうな気がするし、「大学生=私」は「先生」のような致命的なミスを犯さなくてすむような気がする。「大学生」も「先生」もお互いが「私」という言葉でひとつに重なることで、お互いを生かそうとしているかのようだ。

その上、金銭問題も、家族や親族の問題も、恋愛も、友情も、ちょっとした裏切りも、誰もが1度は通る出来事である。「誰も」というのは、私たち読者を含めてと言うことである。誰もが家族の問題を抱えており、金銭的な問題を抱えており、恋愛に一喜一憂し、友情に悩み、誰かに不誠実にしたりする。誰もが、私も「私」のようだ。そう思えるのだ。

大学生も先生も読者も「私」としてひとつに重なることが出来る。そしてその重なるところを「こころ」と漱石は呼んだのではないか。などという妄想を「こころ」にふくらませながら『こころ』を読んだ。

文学作品を読むのって本当に楽しい。そういう楽しさをしばし忘れていた。

(ウルトラマラソン準備完了まであと2533km)




23:02:19 | tonbi | |