Archive for October 2008

31 October

夕日は朝日

次男を保育園に連れいてく途中、空を指さして「あっ、ちがうくも」と大きな声で言う「にゅうどうぐもじゃない」と。ひつじ雲だろうか。うろこ雲と似ているが、雲の1つ1つがぽっこりとして大きい。そしてうろこ雲に比べて空の低いところにある。いずれにせよ、秋の空だ。

桜の葉も少しずつ紅葉を始めている。朝晩の空気も冷たくなってきた。すべてが秋から秋になっていく。そんな事を思いながら、ニカラグアの7歳の女の子に手紙を書く。書きながら、ニカラグアは秋から秋という感じではないのだろう、と思う。

そういう季節の不思議さについて書き、太陽について書く。いまニカラグアで見ている朝日が、同じ時に日本で見ている夕日なのかもしれない。ちょっと視野を広げると、自分の当たり前が、当たり前でなくなり、世界は不思議で一杯になる。そういうことをたくさん学んでください、と。

夕日が同時に朝日でもある。これはちょっと不思議な感じだ。もちろん、太陽は時間とともにその現れを変えていく。その意味では、夕日は朝日でもあるという言い方は可能である。(そして、それはあらゆるものごとに当てはまる。)しかし夕日が同時に朝日であるというのは、そのような時間的な変化のことではない。またこれは、見方を変えればものごとが違って見える、という言葉には収まりきらない感覚を引き起こしもする。

缶ジュースを上から見れば円、横から見れば長方形。ものごとは見方によって違って見える。新人が仕事にはまっている時に耳にすることがある。小学生の算数の教科書にも載っていた気がする。正しい言葉だし、違和感もない。ところが、自分がいま見ている夕日を別の場所から見れば朝日であると言われた時、どこか違和感が生じる。理屈としてはその通りなのだが、缶ジュースの時とは違った感覚を引き起こす。

理由は2つある。缶ジュースの場合は実際に見方を変えることが出来るが、太陽については見方を変えることが想像上のことにとどまること。そして、缶ジュースを上から見れば円、横から見れば長方形という言い方と、夕日は朝日であるという言い方は、違う言い方であることだ。

缶ジュースは実際にその場で違う角度から見ることが出来る。言い方を変えれば、缶ジュースの円と長方形は1つの場所からほぼ同時に見ることが出来る。故に、円や長方形は缶ジュースの全体ではなく部分だと理解している。つまり缶ジュースの全体は円柱であり、円や長方形は部分の切り取りであると、すでに気づいているのである。

太陽の場合は、違う角度から見るということは実際には不可能である。1つの場所にとどまったままでは朝日と夕日が見れるほどの違いは生じないからだ。違う言い方をすれば、私たちの実感にとっては、朝日や夕日というのは太陽の一部分ではない。朝日は朝日として全体であり、夕日は夕日として全体である。

2つ目の理由の「言い方の違い」について。「缶ジュースは上から見たら円、横から見たら長方形」という言い方と、「夕日は朝日である」という言い方はイコールではない。缶ジュースの言い方に違和感を感じないのは、「夕日は朝日である」というような言い方をしていないからである。言い方を揃えるなら、「円の缶ジュースは長方形の缶ジュースである」となる。こう言い換えれば、「夕日が朝日である」というのと同様な違和感をもつことが出来る。

見方を変えれば缶ジュースは円でもあり長方形でもある。これには違和感がない。だが、夕日が朝日であるということには違和感を持つ。おそらく、私たちが太陽と地球を缶ジュースのように手に取れる存在であれば、夕日が朝日であるということに違和感を感じないであろう。(ちょっと首をかしげればよい)。しかし実際には、私たちは昇りゆく朝日、照りつける昼の太陽、沈みゆく夕日のいずれかしか見ることが出来ない。

いま目の前で沈みゆく夕日。それはいまどこかで昇りつつある朝日である。沈みつつあるものは昇りつつあるものであり、真っ赤な夕日は黄色い朝日である。夕日は朝日であり、沈むことは昇ることであり、真っ赤は黄色である。あるものは同時に別のものでもある。

この形式で〈私〉について考えれば、「〈私〉は同時に〈他者〉である」という言葉になる。〈私〉が〈他者〉であるということは、固定的な〈私〉などというものは存在しない、それゆえ〈私〉は何か1つに縛られることなく、すでにさまざまな〈他者〉として存在していることになる。

(この先、話題を「私」に変えて書くつもりであったが、時間切れなのでここまでです)
12:00:38 | tonbi | |

26 October

『悩む力』を読んで


『悩む力』(姜尚中著、集英社新書)を読んだ。同書は、夏目漱石と社会学者マックス・ウェーバーを手がかりに、私たち誰にでも具わっている「悩む力」にこそ、生きる意味をつかみ取れる可能性が宿っていること示そうとするものである。

なぜ、漱石とウェーバーなのか。それは、私たちが生きている現代の苦悩の多くは、「近代」という時代とともにもたらされたものであり、漱石とウェーバーは近代と正面から向かい合い、人間の行く末を問うていたからである。

姜さんに言わせれば、漱石の趣意は、文明というのは世に言われているような素晴らしいものではなく、文明が進むほどに人の孤独感が増し、救われがたくなっていく、というところにあった。またウェーバーは西洋近代文明の根本原理を「合理化」に置き、それによって人間の社会が解体され、個人がむき出しになり、価値観や知のあり方が分化していく過程を解き明かしたのである。

漱石やウェーバーが生きた近代も、私たちが生きている現代も一続きの問題を共有している。漱石やウェーバーが問題に向き合う時に振り絞った「悩む力」を、私たちの誰もがもっている。そのように時代と人を重ね合わせながら、「私とは何者か」「世の中すべて金か」「何のために働くのか」「変わらぬ愛はあるか」などの具体的なテーマを平易に展開している。

趣意は、中途半端に悩まず、徹底的に「まじめに悩み抜き」、その上で「横着者」でいこう、というものである。そのことに異論はない。が、1つ引っかかることがあった。それはタイトルの『悩む力』である。「悩む」という言葉である。

個人的には「悩む」という言葉を否定的に捉えている。これは池田晶子の「悩むと考えるは別」という考えと同じである。多くの人は「悩む」と「考える」を混同している。たんに「悩んで」いるだけなのに、それを「考える」と勘違いしている。当然、解決のためには、「悩む」のはやめて「考えろ」ということになる。

タイトルの『悩む力』というのは、僕の言葉では「ダメな力」ということになる。姜さんがどうでもよい人なら問題ない。しかし個人的には姜さんを非常に高く評価している。湾岸戦争の時のテレビでの発言を見て、面白い人がいるものだなと思った。そして講演会のようなものに行ってみた。

講演の後の質疑応答で「やはり政治じゃなければダメなんですか?」と尋ねてみた。確かこんな答えが返ってきた。「別に自分は政治を勉強したいというわけではない。政治が好きなわけではない。ただ、獅子身中の虫、というのか、一矢報いたい。それだけですね」と。腹を括った人である。ぞくぞくした。こういうちょっとした言葉遣いに、その人の覚悟のようなものが案外あらわれるものである。

そんな訳で、「悩む」という言葉である。辞書でひくと、「あれこれと思い煩う。うるさいほど心をかき乱す」などとある。やはり肯定的な意味ではない。そこで、言葉の用法の初歩的な問題に置き換えてみる。言葉のやり取りには次の4つのパターンがある。

1、(2人以上の人間が、)同じ言葉で、同じ内容を意味する
2、(2人以上の人間が、)同じ言葉で、違う内容を意味する
3、(2人以上の人間が、)違う言葉で、違う内容を意味する
4、(2人以上の人間が、)違う言葉で、同じ内容を意味する

「1と4」と「2と3」の2つのグループに分けることが出来る。「2と3」は言葉と意味が固定的に繋がっているとする考え方である。基本的にはある言葉には決まった意味があるとする。「1と4」は言葉と意味の繋がりに流動性を認める考え方である。言葉の意味は多義的で、文脈や使用者など状況によって、その意味が決まるというものである。

「悩む」と「考える」の場合は、3か4のケースに当てはまる。3として受け入れてしまえば、話しは簡単である。「悩む」というのはダメな行為で、「考える」が正しい行為である。「悩む力」などが役立つといっているのは、所詮もののわかっていない人間の言うことである、終わり。当然のことながら、そのように受け取ることは出来ない。そこで、「悩む」や「考える」について、ちょっと考えてみた。

「悩む」というのは「人や物事に心をかき乱され、問いも立たず、縛られている状態」である。「考える」というのは「人や物事について、言葉の筋道を追ったり、問いを立てていくこと」である。どちらも人や物事に対して、自分の心が向いている、あるいは捕らわれている状態である。

おそらく両者の違いは「言葉」がきちんと機能しているかどうかである。自分の心を捕えているものに言葉でアプローチし、それが何であるかを明らかにすることが「考える」である。一方、「悩む」とは自分の心を捕らえているものに言葉でアプローチできず、ただ、ただ、それに振り回されている。基本的にはそのように分けることが出来るだろう。

しかし、実際にはそう簡単には割り切れない状態が生じる。こういうことだ。自分の心を何かが捕らえている。それが何であるのか、それに対して自分がどのように振る舞わねばならないのか。言葉で考える。そして何らかの答えが出る。しかしその答えを受け入れたくない。そんな場合である。答えは言葉になっているのだが、その言葉を受け入れたくないと思っている。道は1本しかないのに、その道に行きたくない。そんな状態に自分の心がかき乱されている。

言葉でアプローチしているので「考える」とは言える。しかし、心をかき乱されているので「悩む」とも言える。おそらく姜さんのいう「悩む力」というのは、このような状態においても「徹底的に」「まじめに」悩むことが出来る「力」のことを指しているのだろう。やっていることは、自分の心を捕らえている何かについて、何度も、何度も角度を変え、言葉でアプローチすることである。それは僕の言葉でいうところの「考える」である。

考え、答えが出る。でも、その答えを受け入れたくない。また考え、同じ答えが出る。でも、受け入れたくない。角度を変えて考える。でも、同じ答えが出る。何度考えても、同じ答えしか出てこない。どのようにしても他の答えがないとはっきりした時、「そういうことですね。わかりました。受け入れましょう」ということになる。

仏教で真理を表す言葉に「諦」というものがある。「あきらめる」ということである。自分の思うようにすることを、しかたがない、出来ないとしてやめることである。つまり、受け入れることである。そして、そのことが同時に、物事をつまびらかにし、あきらかにすることである。

「悩む」ことも「考える」ことも、中途半端に行わず、「徹底的にまじめ」に行えば、いずれも「諦め」に行き着くのだろう。そこには当然、自分が歩くことになっている1本の道がはっきりと見えていることになる。ふと、そんな道をランニングしている姿を想像してみた。わるくない。


22:08:16 | tonbi | |

22 October

イノシシの警告

何を書こうかと考えながら、電車から30分近く窓の外を眺める。駅を降りて家まで歩きながら思いを巡らす。何も出てこない。秋のせいだ。とりあえず秋のせいにしておこう。「困った時には、子どもか動物の特集にすれば良い」、雑誌だか、テレビだか忘れたが、そんな言葉があったと思い出す。

動物、動物。わが家には猫が2匹いる。猫について書く事はないかな、そう思いながら夕刊を開いたら「イノシシ 小学校で大暴れ、臨時休校に 新潟・長岡」という記事があった。21日の午前7時すぎに、新潟県長岡市の小学校で、イノシシが職員用玄関の窓ガラスを突き破り、学校内を駆け回り、壁に激突したり、教室内の教材を荒らし回ったとのことだ。

イノシシは体長約1m20cm、体重約70kgの雄。捕獲後は怪我で死亡した。現場はJR長岡駅から約600mの市街地。「すぐに捕まえられ、子供たちに危険が及ばずに安心した」「現実とは思えない。イノシシはどこをさまよって学校に来たのか。本当に恐ろしい」などの談話も載っていた。

「たたり神」という言葉が反射的に思い浮かんだ。映画『もののけ姫』に出てくる人間に恨みをもったイノシシである。人間が石火矢でイノシシを殺し、彼らの森を奪い取る。それにより居場所をなくしたイノシシが人間に恨みを抱き、人間を襲う。

構造的には同じ話しである。人の住む領域と獣の棲む領域のバランスが崩れている、その警告としてイノシシは学校に乱入したのである。人界と森の境界にある畑を荒らすくらいでは人間は警告とは受け止めない。そこで今回は派手に、駅から約600mの市街地の小学校に突入した。警告である。

たしかに「すぐに捕まえられ」たことは良かったし、「子供たちに危険が及ばずに」良かった。そして「本当におそろしい」というのも本心であろう。ただ、これにて一件落着とは行くまい。そう思って忘れたら「すぐに捕まえられない」ような事態が起こったり、「子供たちに危険が及ぶ」ようなことが起こるに違いない。抑圧された無意識と同じように、自らの存在が認められるまで訴えるのが警告というものである。

そうなれば人はイノシシ狩りに向かうかもしれない。危険な要素はすべて前もって摘み取ってしまえというわけである。そんな風にして人は警告を与えてくれる存在を1つ、また1つと自らの手で潰していく。誰も文句を言わない。まるで恐怖政治を敷く独裁者のようだ。そのような人間のありようこそ「本当におそろしい」のではないか。エコだとか、共生だとか言う。それは、誰とどんな世界を作り、どのように生きることを指し示すのだろうか。

で、わが家の猫の話。12年ほど前の夏の夜、土手にランニングに行った時のこと。何やら茂みの中で可愛い鳴き声がする。生まれて2週間くらいであろうか。顔立ちも良く、手足も太く、毛並み良くころころした仔猫がこっちに向かって鳴いている。こんな小さいんじゃ1人では生きられないな。それにカラスにやられてしまうかもしれない。連れて帰ることにする。茂みの中で見つけたので、名前は「ヤブ」。(基本的には器量は良いのだが、年をとるにしたがって、おっさんのような表情になる)

ふと気づくと、グランドの上からこちらに鳴きながら近づいてくるもう1匹の仔猫。なにやら貧相な顔立ちで、毛並みも悪く、少し痩せている。兄弟であることは確かだが、生命力と器量はもう1匹にもっていかれたようだ。可愛くてしっかりしたもう1匹の猫を、1人では生きていけないという理由で拾ったのだ。貧相だという理由で捨てて帰るわけにもいくまい。これも連れて帰ることにする。グランドの上で拾ったので、名前は「ツチ」。(神経質だが、後には知将ベンゲルのような顔になる)

で、なぜ猫を拾ったのか。まあ、猫を飼ってみたいという気持ちは以前からあった。でも他にも理由はある。人間が捨てた猫は人間が拾うのがバランスとしてちょうどよいと思ったからだ。「捨て子」と「捨て猫」。言葉遣いは似ているが、決定的な違いがある。「捨て子」は人間の親が人間の子どもを捨てることであるが、「捨て猫」は猫の親が猫の子を捨てるのではないという点だ。

親猫はわざわざ仔猫を段ボールに入れて土手に捨てに行ったりはしない。そんなことをするのは人間だけなのだ。まあ、人間が捨てたのだから、人間が拾うくらいでバランスが良いのだろう。猫も飼ってみたかったし。そんな訳で、わが家には猫が2匹いる。その後、仔猫がいそうな時期にはなるべく土手には行かないようにしている。わが家のバランスが崩れるからである。

蛇足。イノシシの記事をネットで確認していたら、「雪男 日本の登山家ら〈足跡の撮影成功〉と報告 ネパール」という記事を見つけた。雪男、雪男である。水曜スペシャルのテーマ音楽が頭の中で鳴り響く、「あっ、隊長。あんなところに人影のようなものが」との声。ある年齢以上の人にしかわからないだろう、この興奮は。今後の展開が楽しみである。蛇足も秋のせい。
01:44:34 | tonbi | |

20 October

秋の日に親子で牛丼

昨日の日曜日は、子どもを2人連れて土手まで行く。下の3歳児にとっては自転車での最長距離である。往復5km。補助輪どころか、自転車の後にコントロール用の把手がついている段階である。僕は歩いたり走ったりしながら、把手を軽くつかみながら同行する。(強くつかんでコントロールしようとすると、自主性を否定されたと怒る)

なぜ土手かというと、妻がハーフマラソンに出場したからだ。その応援である。少し曇り気味の天気で、気温もそれほど高くない。ただ、北からの風が多少強めに吹いている。荒川は北の上流から南の海に流れ込む。夏の間の南からの風が、いつの間にか北からの風に変わっていた。太陽が出ている時は暑いくらいだが、雲がかかると応援には少し肌寒いくらいだ。

土手についてしばらくすると先頭ランナーが走ってくる。子供たちは土手の斜面で紙飛行機を飛ばしている。時おり、北からの風に乗って、紙飛行機は信じられないくらい遠くに飛んでいく。飛ばしては奇声を上げて飛行機を追いかけている。張のなくなった黄緑の草と、黄色や茶色に染まった草。その中を奇声を上げて走る子供たち。秋の太陽のやわらかい光がそんなものを包む。

子供たちが斜面から転がり落ちてきたら、さっと手を差し伸ばそう。コールフィールドのように。そんなことを思いながら、斜面を転がる大量の豆粒のように一団となり向かってくるランナーの中から妻を探す。応援の場所を指定してあるので、おそらく向こうが見つけてくれるはずである。(マラソン大会で応援した経験のある人ならわかると思うが、あの多数の人間の中から1人を見つけ出すのは非常に困難である)

スターと30分を過ぎたくらいで子供たちを呼ぶ。そろそろ来るはずだよ、と。それほど待たずに妻が走ってくる。子供たちが「がんばって」と声をかける。声とすれ違うようにあっという間に通り過ぎてしまう。応援するは初めてだが、結構、あっけないものである。でも、息も上がっていないし、フォームも悪くない。そこそこいい感じでゴールできるだろう。

お腹が空いたと言うので子供たちを連れて吉野家に牛丼を食べに行く。ジャンクである。僕は基本的にはジャンクなものはほとんど食べない。厳しく食事をコントロールしているわけではない。簡単なものなら自分で作れるから、わざわざ食べに行かないだけだ。外でお腹が空いた時もジャンクな食べ物を食べるよりも、おっ、ちょっとしたダイエットになる、そう我慢してしまうからである。

それでも、時々、ジャンクなものが無性に食べたくなることがある。1年に2,3回だ。具体的には吉野家の牛丼とマクドナルドのビックマックと塩辛いポテトと薄いコーラである。そんな場所に子どもを連れて行くのは当然、イヤである。イヤなのだが、男親子3人がカウンターで牛丼を食べるという像に自虐的な魅力を感じる。女房に逃げられ、子どもにまともな食事をさせられないダメな父親みたいで、非常にわくわくする。

子どもは子どもで、ジャンクな食べ物が好きである。(あれだれ味が濃いんだから当然である)。小学校2年の長男は大盛りを食べて、まだ食べられるという。3歳の次男も家で食べるよりもたくさん食べる。大喜びである。店を出たところで、次男の保育園の母子とばったり出くわす。次男は大きな声で、「ぎゅーどんをたべたんだ」と自慢気である。(ふだん食べないものだから、希少価値があるのだ)。冷や汗ものである。本当にダメな父親になった気がした。

土手で人が走っているのを見ていたら、自分も走りたくなった。そんなわけで、家に帰った妻と入れ替わるように、夕方、土手までランニングに行った。日もほとんど落ち、土手にはわずかばかりの人がいるだけだ。数時間前にはあんなにたくさんの人が同じ場所を走っていたのに。

時々、自分がいる場所が何百年も続いている場所だということに気づき、びっくりすることがある。かつてここで何が起こったのか。そう想像すると自分のいる場所が、単なる近代的な平均化された空間とはだいぶ違って感じられる。暗い土手を1人で走りながらそんなことを想像していると、柳の枝が風に揺れる姿も怪しく見えてくる。このまま暗い土手を走っていると違う時間に行き着いてしまうのではないか。あの多感な10代の頃眺めていた、秋のやわらかい灯の街に行き着いてしまうのではないか。そんな妄想が次から次へと浮かんでは消える。

相変わらず、風は北からやわらかく吹いている。少し冷たい風だが、火照った体にはちょうどよい。虫たちも鳴いているし、首都高速のランプの灯がが等間隔に並んでいる。車のライトが蛍の光のように流れていく。いろんなものが近いようで遠く、遠いようで近く感じられる。秋になるといつもそうだ。集中力、という言葉が頭に浮かぶのだが、その言葉も遠くのほうでふわふわしている。でも、そのふわふわが心地よかったりする。秋である。
22:54:29 | tonbi | |

16 October

どの視点からの記事ですか?


昨夜の品川での人身事故は、やはり飛び込みだった。30代の男性で、病院で死亡が確認されたそうである。毎日新聞のネット版の記事に載っていた。こんな記事である。

  飛び込み 品川駅で男性死亡 京浜東北線に運休や遅れ
14日午後8時50分ごろ、東京都港区高輪3のJR 京浜東北線品川駅のホームから、南浦和発、大船行き普通電車(10両編成)に男性が飛び込んだ。警視庁高輪署によると、男性は30代とみられ、収容先の病院で死亡が確認された。高輪署が身元確認を急いでいる。
JR東日本東京支社によると、この事故で1本が運休、同線と東海道線の計20本が最大で38分遅れ、乗客約2万4000人に影響が出た。

普通の記事だ。いつもなら、なるほどそうか、と読み飛ばしていただろう。でも何かが引っかかった。そこで何が引っかかるのか考えてみた。理由がわかった。誰が、誰に向かって書いた文章なのかがよくわからない、というのが理由だった。

新聞の記事だから、記者が読者に向けて書いたということはできる。でも、これは基本的には鉄道会社の視点からまとめた事故報告書という感じである。「南浦和発、大船行き(10両編成)」という部分は、鉄道会社としては必要なデータだろうが、記者、読者にとってはそれほど重要ではない。

また、「この事故で1本が運休、同線と東海道線の計20本が最大で38分遅れ、乗客約2万4000人に影響が出た」という部分は、ある時間に飛び込み事故が起こった場合は、輸送状況にこれくらいの影響が出るということを、客観的な数字で表したものである。まさに鉄道会社にとって必要な情報である。

当時、事故の影響を受けた人たちにとっては、運休が1本とか、計20本が最大で38分遅れたということはあまり関心はない。運休が1本であろうと、10本であろうと、自分の乗った電車が運休するか否かが問題である。計20本が最大38分の遅れもそうだ。自分が乗った電車が何分遅れたかが問題である。運休1本と、計20本が最大38分の遅れという情報は、まさに鉄道会社の視点である。

ましてや乗客2万4000人に影響が出たというくだりは、鉄道会社の視点からのみ意味をなすものだ。当事者となった乗客の誰が、2万4000人というひと括りの集団を想像していただろうか。2万4000人の中でも、影響が気にならなかった人は気にならなかっただろうし、気になった人は自分1人に影響が出たことを気にしていたはずである。

この記事は鉄道会社の視点から見て意味のある情報が並べられた記事なのだ。だから、この記事を読んで疑問に思わず、そういう出来事が起こったのかと納得していたとしたら、それは自分でも気づかないうちに鉄道会社の視点から物事を見ていることになる。

そしてこの視点から見ると、1人の人間が飛び込みをすると、電車を1本運休させ、計20本に最大38分の遅れを出させ、乗客約2万4000人に影響を及ぼす、そういう出来事として「飛び込み」を見ることになる。そこから導かれる言葉は「迷惑」という事になるかもしれない。

実際、迷惑をこうむった人はいただろう。また、人には迷惑をかけないことに越したことはない。電車に飛び込めば人に迷惑をかけるし、人に迷惑をかけないほうが良い。そんなことは誰もが知っている常識である。にもかかわらず、ひとりの人間が電車に飛び込んで自らの命を絶ったのである。ただの「迷惑」で片づく話しでもないだろう。

新聞記事を読む限り、飛び込んだ人に対する想像力を働かせている感じはしない。だから鉄道の輸送業況への影響の方に意識が向かってしまう。もう少し、飛び込んだ人の〈顔〉が見えてきても良いのではないかと思う。別に個人情報を開示せよと言うことではない。

30代の男性が電車に飛び込む。その一瞬、飛び込もうと、自分で思ったのは確かなことかもしれない。でも、飛び込みたくて、飛び込みたくて、嬉しくて飛び込んだということはまずないだろう。1人ぽっちだ、誰も助けてくれない、もうやっていけない、そんな思いで飛び込んだのではないだろうか。なぜ、そんなことになったのだろう。そういう想像力が刺激されるような記事があっても良いのではないだろうか。たとえば、こんな記事である。

『昨日の夜、9時少し前、京浜東北線品川駅で30代の男性が飛び込み、死亡した。これにより多くの人に影響が出た。迷惑に感じた人も少なからずいたかもしれない。大きな損害をこうむった人もいるかもしれない。でもこの世界ではそういうことが起こるのだ。

自殺者が3万人を超えると言われる社会である。こういう機会に自分に問うてみてはどうだろうか。人生を投げ出したくなったことはないか。あるとすればそれはどんな辛さなのか。自分を助けてくれる人はいるのだろうか。あるいは自分は誰かを助けられるのだろうか。すべてを投げ出して死を選ぶと言うのはどういう気持ちなのだろうか。

彼を完璧な人間として美化する必要はない。ただ、彼が生まれた時のことを想像してみよう。泣きながら生まれ、誰もが幸せになれるような笑顔を見せたはずである。読者の皆さんと同じように。成長するにつれ、いつの間にか少しずつ何かがズレてくる。そして気がついたら、修正が利かない状況に追い込まれ、電車に飛び込むことになっていた。彼はそういう結末を望んでいただろうか。小学校の卒業文集にそんなことを書いただろうか。おそらく、こんなことは望んでいなかったはずだ。もっと幸せな未来を想像していたはずである。

人は望んでもいないところに、いつの間にか追いやられてしまう。そういうことがこの世界ではあるのだ。あなたはそんなことになっていないだろうか。あなたの周りにそんな人はいないだろうか。ホームの端ぎりぎりまで来て迷っていないだろうか。彼の死を活かすためにも、これを機に自分を見直し、自分の周りを見直してはどうだろうか。冥福を祈る』。



02:39:02 | tonbi | |