Archive for November 2008

29 November

「大人」とは


11月も明日で終わり。11月のランニングの目標は1日8km。1ヶ月で240km。29日現在で207km。目標まではあと33km。そして明日は筑波マラソンである。もちろん42.195kmのフルマラソン。きちんと完走すれば今月の目標はみごと達成である。

寝違えた首の痛みは残るし、腰痛もあるし、脚もところどころ慢性的に怪我をしている。体重も予定より2kgほどオーバーしている。とてもじゃないがベストな状態とは言えない。ベストとは言えないが自分なりには走り込んできたので、何とかなるだろうという気もしている。今回の目標は、翌日にジョギングが出来る状態でレースを終えるというものだ。無理せず、ゆっくり、楽しく走ってこよう。

前回のブログで、「大人」について書いた。「大人とは何か?」については考えてきた。僕が考えている「大人」とは、「自らの問いに答えている人」である。生きることは「問いに答えること」だと考えている。その際、たいせつなのは「誰の問いに答えているか」だ。どのような問いであれ、答えているのはつねに「自分」である。するとついつい「自分は自らの問いに答えている」と考えてしまうようになる。

生きるということは、何らかの基準にもとづいて、さまざまな出来事や人と関わり、年月を経ていくことである。生まれたばかりの子どもが基準を身に付けるさい、最も影響を及ぼしているのが親である。理にかなっている場合もあるし、八つ当たりをしている時もあるし、愛情たっぷりの時もある。親はさまざまな場面で子どもに価値基準のようなものを与えようとする。

多くの場合、子どもたちは親から与えられた基準を自らのものに内面化していく。そしてそれに基づいて世界を体系化し、その中で自分の場所を確保していくのである。これは親の価値観に基づいて生きることであり、「親の問い」に答えていることである。

もちろん、多くの子どもたちがある時期、親の価値観に反発する。そして親に反するような価値観に基づいて生きていくことを選んだりする。親に反する価値観に基づき世界を体系化し、その中で自分の場所を確保していくのだ。これは一見、自分の基準を手に入れているように見える。しかしよく考えてみれば、親の価値観に反するということは、親の価値観を基準にしていることである。親の基準に反するという形でしか自らの基準を作ることが出来ない。ここで行われているのは、親の基準に反する形で生きるとこういう答えがでますよ、という形で「親の問い」に間接的に答えていることになる。

厄介なのは、親自身も同じように、その親からの問いを自らの問いとして内面化していることである。そしてその親も同じようなことをしている。ぐるぐると同じことが繰り返されている。ある意味、輪廻である。(転生ではない)。親の問いに答えるという言い方ができる限り、そこで答えているのは子どもということになる。だから、「親の問い」に答えている間は、その問いがとれほど難解であっても、社会的に大きな影響力を持つものであっても、それに答えているのは「子ども」なのである。(今の総理大臣とか、前の総理大臣はよくおじいさんのことを口にする。あの歳で「お孫さん」である。)

自分が答えている問いが誰の問いなのかしっかりと見極めること。それが子どもから大人へなるための大切な仕事である。自らの問いが誰の問いなのか、そのことを「自分に問うこと」が大人になるためには必要なのだ。そこで行われるのは、それまで当たり前だと自分が思っていたことを疑うことであり、問うことである。

自分に問うことを続けているうちに、自分が何を問題にしているかが明らかになってくる。それは他人との比較や、統計による平均化など出来ないものだ。単純なものもあれば複雑なものもある。社会的には小さなものもあれば、国際的な大きさのものもある。でもそういう比較にはあまり意味がない。大切なのは、その問いに答えないと何かやり残したままこの世とさよならをしてしまうことになる、そんな問いをそれぞれが生きているかどうかである。(やり残された問いは、必ずや子どもに押し付けられるだろう)。

「大人になる」というのは「自らの問いを見つけられた」ことを言う。そして大人であり続けるためには、自らの問いに答え続けることである。「大人」は自らの問いに答えることの大切さを理解しているから、人に問いを押し付けようとはしない。自分自身が自らの問いに答え続ける姿をさらすことで、人にも「自らの問いを答えてよいのだ」ということを示す。

ただ、本当のことを言えば、大人が応えているのは「自らの問い」ではない。大人が応えているのはただの「問い」である。なぜなら、大人がとは自分が気づかずに内面化してしまったものをすべて疑ったにも関わらず残る何かを「問い」としているからである。大人の「問い」とは自分が選び取った「問い」ではない。逆である。「問い」の方が答えてくれる人のところに訪れるのである。その「問い」から逃げずに、「はい」と言って受け入れられる人が「大人」なのである。

向こう側から勝手にやってきたものを「はい」と言って受け入れる。自らの持っているわずかなリソースを有効に活用してその問いに答え続ける。それが「大人」というものである。少なくとも、僕はそう考えている。



21:31:30 | tonbi | |

28 November

平均的な大人はいない

ランニングコースの桜並木。赤茶色の葉が落ちて、落ちて、落ちる。枝と枝と枝が交差して、崩れた格子模様を作り出す。格子模様の向こうには透明感のある青い空が広がる。桜の枝の向こうの空は冬にしか見ることが出来ない。残りわずかな葉がすべて落ちた時、僕の中で冬が始まる。

11月26日の毎日新聞の「記者の目」というコーナーで、大阪府の橋本知事が10月に全国学力テストの市町村別データの開示に踏み切ったことを取り上げていた。市町村教委がデータを「自主判断」で公表したというが「自主判断」が妥当だったのか、データ公表がきちんと教育に活かされるのか、などが書かれていた。気になったのは、市町村教委がデータを公表するきっかけになった橋本知事の考え方だ。

『「このざまはなんだ、と言いたい」。学力テストの都道府県別結果が発表された8月29日、橋本知事は報道陣にそう語った。大阪府の成績が2年連続で全国平均を下回ったことに不満を示したもので、府教委や市町村教委に対する挑発とも受け取れた。』

「平均を下回ったことに不満を示した」という部分を読んで、そういう人なのねと思ってしまった。そういう人というのは他人との競争の中でしか自分を確認できない人ということである。他人との競争の中でしか自分を確認できないということは、自分が何ものであるのか理解する基準が自分の外側にあることを意味する。基準が自分の外側にあるということは、他人の基準(ルール)にもとづいて生きることである。他人のルールに基づいて生きるということは、他人の問いを生きることである。他人の問いを生きるということは、自分の問いに答えないまま生きるということである。自分の問いに答えないまま時だけが過ぎるから、自分は成長しないのである。大人じゃないのである。

平均というのはある意味で厄介である。全体的な状況把握には向いているが、平均を標準とし優劣を付け始めるろくでもないことになる。何故か。構造的に平均以下の存在を生み出してしまうからである。確実に劣ったものを生み出してしまうからである。そして劣ったものが存在することによってしか優れているものは存在できない。

学力テストには全国平均という数値がある。これ自体はこの国の学力の状況を表した数値である。それとは別に都道府県別の平均値がある。これも各都道府県の学力の状況を表したものである。ところが、全国平均を基準にすると、各都道府県の間に優劣がつくことになる。都道府県のどこかがかならず劣った存在として立ち現れる。またそれぞれの都道府県内には市町村別の平均データがある。データに基づいて市町村の優劣を付ける。市町村には学校別平均データがあるだろう。学校の優劣がつく。そして学校は個々人の成績データをもつ。それによって個々人の優劣がつく。

確実に劣ったものが作り出される構造になっている。競争原理である。当世風である。しかし確実に劣ったものを作り出す構造というのは教育に向いているのだろうか。何かを学ぶということは他人より優れていることを目的として行うことなのだろうか。僕にはそうは思えない。教育とは自分がずっと成長していけるやり方を授けることだと思う。

とはいか教育を与える側が競争原理で行くのであれば、教育を受ける子どもたちはその競争に乗るしかないだろう。競争から降りること自体が自らが劣っているということの同意署名となっとしまうからである。

誰が作ったのか分からないルールに基づいて競争することを子どもの頃から教え込まれる。(案外、教育の隠れた目的とはそんなところにあるのかもしれない。一種のマインドコントロールである)。成長するということはそのルールをきちんと守れること、成功するということはそのルールで1つでも多くの「優」を手に入れることとなる。「優」は他人との比較なので、自分が伸びなくても他人の足を引っ張れば「優」は手に入る。当然、自分の持っているよいものは人には与えない。困っている人は助けない。(自分の「優」に繋がる人には与えるし、助ける)。そんな形でさまざまなテクニックを習得していく。

一生懸命である。必死である。競争に負けることは存在自体が「劣」と見做されることだからである。他人が作ったルールにもとづく競争である。周りばかりを見て、そこで上手く立ち回ることだけに意識が注がれる。深く自分を観るということがない。その自分はほったらかしにされたままである。何年も何年も、子どもの時から手をかけてもらえないままだ。そんな自分はまともな大人に成長できるはずがない。いたずらに齢を重ねた小賢しい図体の大きい未熟なものが立ち現れる。それは子どもとすら呼べない。子どものよさを失っているからだ。ゆがんだ生き物である。

そんなゆがんだ生き物が増えれば増えるほど、理不尽な出来事が次から次へと起こってくることになる。実際、ゆがんだ出来事が起こり始めている。ゆがんだ生き物が作り出す、ゆがんだ出来事ばかりのゆがんだ世界。そういう世界はあまり魅力的ではないし、楽しくなさそうである。世界を楽しくしよう。

大きな視点からすればルールの見直しが喫緊の課題であるが、個人しては出来ることしか出来ない。優劣で人と関わることをやめ、自分を学び、大人になることである。そして子どもたちに胸を張って「大人になりなさい」と言えるようになることである。そうそう、あと笑顔でいることである。
12:04:40 | tonbi | |

22 November

『ルポ貧困大国アメリカ』を読んで


『ルポ貧困大国アメリカ』(堤未果著)という本を読んだ。アメリカという国はすごいことになっているな、といささか驚かされた。先日の大統領選挙でオバマが次期大統領に決まり、アメリカは変わるだろうと言われているが、この本で書かれている内容は、まさに変わる以前のアメリカの姿である。
ノグチは政治や経済の話には明るくないので、内容を簡単にまとめて受け売りをしようと思う。

タイトルにあるように、アメリカの貧困状況について書いた本だ。現在のアメリカでは貧困は構造的に生み出されるようになっている。原因は新自由主義的な政策である。もちろんそれはアメリカ建国以来のことではない。始まりは1981年に就任したレーガン大統領であり、そして現大統領のブッシュに至るまで続いている。

新自由主義とは、市場原理主義に基づく政策を優先し、社会保障を削減していくものである。これにより中流層がなくなり、アメリカでは富裕層と貧困層の二極化が進んだ。(日本では小泉・安倍の民営化政策がこの流れに属する。そして日本でも「格差」が問題となってきた)。この辺りを同書をもとに、もう少し詳しく書いてみる。

アメリカではレーガン大統領(1981〜1989まで在任)が新自由主義を導入し、アメリカ社会を大きく変えていった。効率重視の市場主義を基盤にしたもので、目的は大企業の競争力を高めることで経済を上向かせることである。そのめたに企業に対する規制を撤廃・緩和し、法人税を下げ、労働者側に厳しい政策を許し、社会保障を削減するというものである。

これにより、安価な海外の労働力に負けたアメリカ国内の製造業は力を失い、労働者たちがぞくぞくと失業することになった。そして中間層が貧困層に転がり落ちることになる。落ちぶれた製造業の変わりに主流になったのは金融、IT、コンサルティングなどのサービス業である。これらの業種は一部のエリート層で事足りる性質であったことから、国内の所得格差が急激に広がっていった。

ちなみにアメリカ国勢調査局が発表したデータによると、2005年度のアメリカ国内貧困率は12.6%、うち18歳以下の貧困児童率は17.6%(約6人に1人」)である。(同局の2006年度における貧困の定義は、4人家族で世帯年収が2万ドル(220万円)以下の世帯を指し、その家庭の子どもを「貧困児童」とする)

アメリカでは6人に1人が貧困児童であることには驚いた。そして、この貧困児童には肥満児が多いという。貧困なのに肥満とは違和感を覚えるが、その理由は食事にある。貧困家庭の貧困児童の食事は、「無料―割引給食プログラム」と「フードスタンプ」によって賄われている。

「無料―割引給食プログラム」は学校の食事に関する公的な制度で、朝食、昼食と両方のプログラムがある。社会保障を削減する政策下では予算は限られたものとなる。学校側はやりくりのため、メニューを安価でカロリーが高くいものにする。いわゆる調理の簡単なインスタント食品やジャンクフードである。

学校でジャンクフードを食べる子どもたちの家での食事は「フードスタンプ」によって賄われる。「フードスタンプ」とは貧困ライン以下の家庭に配給される食料交換クーポンのことである。たとえばルイジアナ州では、フードスタンプの支給額は、無収入の4人家族で月額518ドル。1回の食事につき1人1ドル40セントだ。受給者の家には調理器具がなかったり、キッチンそのものがないケースもある。

そうなれば、調理をせずにすみ、とにかくカロリーの高いものを買うことになる。無料給食プログラムに最も高い頻度で登場する高カロリー食の「マカロニ&チーズ」、お湯をかけると1分で白米ができる「ミニッツ・ライス」、味の濃いスナック菓子、2ヶ月たってもカビの生えない食パン。こんなものばかりを食べ続けることになる。その結果、貧困地域を中心に、栄養不足の肥満児(そして肥満成人)が増えていくことになる。

もちろん貧困にならなければよい。きんちと働いていればそこそこの生活は出来るはずだと思うかもしれない。しかし「ワーキングプア」という言葉は日本でも現実のものとなっている。きちんと働いていても、貧困に陥ることはある。たとえば、病気である。アメリカでは下手に病気をすると中流家庭が一気に貧困に陥ることがある。

新自由主義のもと、アメリカでは公的医療も徐々に縮小された。大企業の負担する保険料を抑えるためである。その結果、「自己責任」という名のもと国民の自己負担率を拡大させ、「自由診療」という保険外診療が増えることになった。

電気会社に技師として務めていた男性は急性虫垂炎で入院して手術を受けたことがきっかけで、破産宣告を受けることになった。たった1日の入院で請求額は132万円である。とにかく医療費が高額である。出産でも入院すると1日だいたい40万〜80万円くらいかかる。そこで日帰り出産が増えているという。

厄介なのは会社に勤めていて大きな病気になった時である。発病時は会社の保険を使って治療が出来るが、職場復帰を拒否されるケースが多いのだ。(ここには会社と契約している保険会社からの影響がある。)職場に復帰できなければ、高額な自己加入保健か無保険者になるしかない。職のない状態で高額な保険料を払い続けられる人は少なく、多くの人が無保険者になり、一挙に貧困層に転がり落ちることになる。

(突然ですが、思いついたこと。おもしろいもので、自分がよく知らない分野のことをまとめようとすると。分量がどんどんと増えていく。まとめるということは自分自身に簡潔に説明することなのだろう。だから、自分か知らないことの多い分野についてまとめようとすると、書く量が増えるのだろう。あるいは、初心者のデッサンのようなものなのかもしれない。デッサンをきちんとしようとするればするほど、線の描き込みが増えるのである。ただ、そこを飛ばすとただのヘタウマになってしまう。)

いずれにせよ、新自由主義のもとで社会保障が削減され、ちょっとしたきっかけで貧困に転落していくような社会にアメリカはなってしまった。貧困からの脱出の手段はあるのだろうか。未成年であれば、学歴というものが1つのチャンスになる。しかしそこでも社会保障が削減され、奨学金などが減っている。

学業を修めたいがお金がない。そんな若者を狙ってくるのが、軍のリクルーターである。学校に競争原理を持ち込み一斉テストをする。成績の良し悪しで助成金をコントロールする。学校の管理である。同時に、学校は生徒の個人情報を軍のリクルーターに提出する。そこには、成績はもちろん、親の年収および職業、市民権の有無などが含まれている。

こういう情報に基づき、軍はピンポイントで本人や親に勧誘をかける。「あなたの(あるいはお子さんの)将来のために、軍に入ってはどうですか?入隊後には大学の学費を受け取れるのですよ」と。すでに大学に通っていて、学費に困っている生徒に対しては、学資ローンの返済とバーターの形で軍への入隊のシステムが作り込まれている。

学業を目指す若者以外の成人男性にも、似たような道が用意されている。戦争において民営化された部分である。イラク戦争ではチェイニーがCEOを務めていたハリバートンなどの民営企業の存在が問題となった。アメリカでは、そのような企業が貧困層の人々を派遣ビジネスという形で雇用している。派遣先はイラクなどである。

軍に入ってから大学で学業を修める。派遣業務としてイラクに行き高収入をえる。しかし現実には、そういう希望はそれほど達成されない。実は軍に若者をリクルートすることも、派遣としてイラクに人をおくりこむことも、「貧困層」をターゲットとした「ビジネス」として成り立っているからである。

実は「貧困ビジネス」というのが同書のテーマである。新自由主義のもと構造的に「貧困層」を作り出し、そこからお金を巻き上げるシステムがアメリカに出来ている。(サブプライム問題も「貧困ビジネス」の1例である)。そして日本も新自由主義を追いかけているため、似たようなことが起こるのではないか。これが同書のテーマである。

詳しくは同書にゆずるが、アメリカはすごいことになっているのだな、と思わされた。アメリカが「チェンジ」を求めてオバマを大統領に選んだのもわかる気がする。




19:46:48 | tonbi | |

20 November

成長とは?


今日は仕事で渋谷まで行く。駅を降りてから道玄坂をゆっくりと歩いてのぼる。風が吹き、ケヤキ並木が揺れ、茶色に乾いた葉々が舞い落ちる。少し西に傾きかけた太陽の弱い光が、揺れるケヤキの枝葉の中から差し込んでくる。乾いた透明な空気の中を、光が乱反射する。ヘッドフォンからはフィッシュマンズの透明で消え入りそうなヴォーカルの声が聞こえる。秋も終わりそうである。

渋谷で一仕事し別の場所に移動する途中、渋谷マークシティの連絡通路で岡本太郎の「明日の神話」を見る。時間がないので5分ほど眺めただけだ。とにかく大きな絵だ。縦5.5m、横30mである。全体をざっと見渡し、色の配置や構図などに注目する。それから全体を意識しつつ、1つ1つの部分をじっくりと見ていく。だんだんと心地よくなってくる。線や色が動き出してきそうになる。

ストップ。線や色が動き出すと、絵の方からの語りかけが始まってしまう。そうすると僕の頭の中はいろいろな言葉が去来することになる。とてもじゃないが、5分や10分では立ち去れなくなる。とりあえず、そこまででストップして、次の機会にゆっくり見ることにする。それにしても美術館に行かずにこれほどの絵をゆっくりと見れるとは嬉しい限りである。

このところ仕事で「成長」について話をする機会が何度かあった。話しながら自分が何を喋っているのか聞いていたら、こんなことを言っていた。「人が成長するためには、次のどちらかが必要だ。1つは、何があっても目指したものを手に入れるまで追いかける姿勢。つまり自分が徹底的に移動することである。もう1つは、自分を完全に空っぽにできることである。空っぽにして異質なものも自分の器に入れてしまうことである」と。

確かに自分の考えと一致している。話をしていると、ときどきこういうことがある。自分が十分に考え、すでに知っていると思っていることを話しているのだが、口にした時に初めて「ああ、自分はこんなことを考えていたんだっけ」と気づかされるのである。思いを上手く言葉に置き換えられたときの気持ちよさなのだろうか。あるいは単なる痴呆なのだろうか。

手に入れるまで徹底的に追いかけ続けること。これは自分が今いる場所からの移動である。手に入れるまでの間には、当然のように障害が待ち受けている。それらを乗り越え、ついに求めるものを手に入れる。冒険である。宝物や奪われたお姫さまを求めて、怪獣や魔物や竜と戦いながら、最後にはそれを手に入れる。いくつもの逆境を乗り越えることで人は成長する。

自分を空っぽにして何でも受け入れること。これは今の自分という器を広げることである。自分の欲するもの、自分に都合の良いものだけを受け入れるのではなく。四の五の言わずに、あらゆるものを受け入れる。自分とは異質なものを自分の器に収めることで、自分は変わり、成長することが出来る。

今いる場所から自分が移動すること、今の自分の器を大きくすること、どちらも自分が変わることである。成長とは自分が変わることである。動きもせず、自分も空っぽにすることもしない人は、成長することが出来ない。どれだけ多くの情報を詰め込んでもそれは成長ではない。その人から出てくる情報は、金太郎飴のようにすべてその人の顔をしている。何年経っても同じような飴を大量に作り続けるだけである。

にもかかわらず、自分を変えることなく成長したいという、矛盾した欲望を持っている人は多いようだ。昔、不条理の説明でこんなものを読んだ記憶がある、「不条理とは、海に入りたいのに水には濡れたくないという相反する思い」。自分は変わることなく成長したい、そんな思いの核にあるのは「我に対する執着」であろう。

そうであるならば、もっとも成長するのは「自分を空っぽにしながら、徹底的に何かを追い続けること」だろう。「空っぽで、追い続ける」ことだ。あるいは、そんな人は何ひとつ所有していないように思えるかもしれない。その人は空っぽで何も持っていない、だから何かを追い続けているのだ、と。しかしそれは誤りだろう。「空っぽ」なのは「自分」である。「自分」はないが、そこには自分以外のさまざまなものが満ちている。器は空っぽであるからこそ、さまざまなもので満たされている。器を満たすさまざまなものとは、追いかけるなかで出逢うさまざまなものたちである。

風に舞うケヤキの葉々であり、乱反射する太陽の光であり、透明で消え入りそうな歌声であり、色であり、線であり、明日の神話である。そういうものたちを器にきちんとおさめとれているときを「功徳」と言うのである。



01:31:37 | tonbi | |

15 November

憑き物の言葉


麻生首相が漢字を読み違えたという新聞記事を読んだ。「「頻繁(ひんぱん)」を「はんざつ」と、「踏襲(とうしゅう)」を「ふしゅう」と読み違えたとのことだ。(「はんざつ」は意味が分かるが、「ふしゅう」っていったい何だ?「腐臭?」「俘囚?」)読み方を知らなかったのか、読み違えたのか、実際のところ分からない。まあ、どっちにしろ漢字をきちんと読めなかったという事実は変わらないし、そんなことをしそうな人だという気はしていた。

それよりも「定額給付金」絡みの発言がふらついていることの方が気になる。麻生氏が発言でふらつくこと自体は意外ではない。彼がものごとを深く考えて発言するような人ではないということは、ちょっと見ていればすぐ分かる。それよりもこういうタイプの人が増えていること、ついに首相にまでなったということ、そのことに不安を覚える。

どういうタイプの人かというと、自分が思っている通りに物事が進んでいる限りは非常に上手くやっていけるが、予想外の出来事が起こると、本人は柔軟に対応しているつもりでいながら、やっていることは結局の場当たり的な対処。その結果、まわりの人間に非常に迷惑をかける。でも本人は、そんなことが起こるとは思っていなかったのだから仕方がないと開き直り、それが続かなくなると放り出してしまう。そんな人である。

思いついたことをぺらぺらと話すことが社会的によいとされたあたりから、こういうタイプの人が増え始めたのだと思う。おそらくバブルあたりからそういう社会になってきたのだろう。かつては「不言実行」とか「沈黙は金、雄弁は銀」とか「巧言令色鮮(すく)なし仁」とか、言葉よりも行動に重きが置かれていた。

今では行動よりも言葉である。沈黙などはまったく意味をなさない。思いつきのままに話しをする、タイミングの取り方が上手い人間、内容の無い話しをあるかのように見せる技術、そういうものが重要視されている。黙っていてはダメだ、言葉は使ってこそ価値がある、という訳だ。

しかし人々が雄弁になればなるほど、価値のある言葉というものに出合うことが少なくなっている。当然である。「沈黙」とか「不言」というのは別に言葉を使わないことではないからだ。言葉を軽々しく口にしないだけで、自分の中では何度も何度も言葉を練り直しているのだ。自分の中で自分の言葉に異論を唱えたり、疑問を呈したり、組み建て直したり、そんなことを繰り返しているのである。人前に出される前に、逆境をくぐり抜けているのである。そういう言葉が口にされ、世に出る。逆境に強い。簡単には振り回されない。それらはすでに自分の中で経験済みだからだ。

どうも近ごろは「単なる思いつき」が「考え抜かれたアイデア」と同じだと思っている人が多いように感じる。そしてその思いつきをとにかく口にすることが発想の豊かな人だと思い込んでいるようである。「アイディア=idea」の語源がラテン語なのかギリシア語なのかは知らない。厳密な意味も分からない。だが、哲学史において最初の方に出てくるプラトンが「イデア」を説いた時、それが「単なる思いつき」という言葉に収まるようなものではなかったはずだ。

単なる思いつきをぺらぺらと口にするというのは、僕に言わせれば「憑き物に憑かれた状態」である。何かを思いつく、というのは自分の意志で行っているものではない。ふいに、思いが頭の中にやってくるのである。自分以外のところからやってきた言葉である。それをそのまま口にするのは、自分で考えていない言葉を口にすることだ。危険きわまりない行為である。

だから「沈黙」が必要なのである。沈黙とはそのような思いつきの言葉に対する自分というフィルターのことである。思いつきの言葉がそのまま口から漏れてしまわないように、フィルターをかけることが沈黙である。

麻生氏の表情を見ていると、あんまりフィルターがかかっている人ではないなという気がする。失言や暴言が多いというのは、憑き物がフィルターに引っかからずに出てきているということだ。じゃあ、憑き物とは何かといえば、それは本人が疑うことなく当たり前だと思っていることである。そういう意味では、思いつきの言葉は憑き物のせいだが、その憑き物に憑かれているのは、自分自身の疑う力の弱さのせいでもある。



21:55:33 | tonbi | |