Archive for December 2008

29 December

パパ、うまれるとき、青いバスにのってきた?


今日も土手を走る。とても穏やかだった。風はなく柳の枝はぴくりともしない。太陽の光は刈れた芝を金色に照らす。冬休みの親子が、段ボールで土手をすべり降りていく。途中、バランスを崩し、笑いながら転倒する。洋服も髪も枯れた芝生がたくさんくっついている。くっついたまま土手を上り、また笑いながら斜面を滑り降りる。

波のない遠くの川面を眺めながら走る。走りながら、今年も何とか乗り切ったな、と思う。大した病気もしなかった。食べ物がなくて困ることもなかった。子どもたちも元気に大きくなっている。悪くない。新聞を見れば、所持金が千円を切って寝泊まりするところもなくなった、そんな人たちの話しがたくさん出ている。そういう記事を見るたびに、少しだけヒヤッとする。そしてとりあえず自分が今年を乗り切れたことを感謝したい気持ちになる。誰に感謝すればよいのかは分からないけど。

書き残したことはなかっただろうか、走りながら考える。すぐにいくつかのことを思い出す。1つは次男が1ヶ月くらい前に僕に投げかけた言葉だ。「パパ、うまれるとき、青いバスにのってきた?」。この言葉を聞いたとき、すぐに自分の周りの空気が変わった。世俗の煩雑な空気や思いがすっと脱落した。そして、自分がやってきたところ、そしていずれかえっていくところに思いを巡らした。

よく覚えていないんだ。どうやってここにやってきたのか。みんなそうでしょう。自分のことなのに忘れてしまっているのだ。みんな、みんな、青いバスにのってここにやってきたのだ。小さなリュックを背負い、浅く腰掛け、どきどきしながら窓から外を眺めている。停留所に止まるたびに、1人また1人と降りていく。似たような顔をした2人が一緒に降りていくこともある。

停留所を降りたら、まっすぐに歩いて、赤いポストがあったらそこを左に曲がるんだよ。そうすれば、そこに君を待っている人たちがいる、そんなふうに車掌さんが1人1人に教える。しばらくの間、ここで楽しく過ごすんだよ。いずれまた、この青いバスで君を迎えに来る。いいや、終わりの時だけじゃない。連れて帰るのも青いバスの仕事だけど、青いバスはいつだって君のまわりを走っているんだよ。

もうどこにも行けない、そう思ったようなときに、ちょっと青いバスに乗ってみるとよい。2つか3つ分の停留所を乗るだけで思ってもいないところに行くことができる。そうしたら、またそこから始めることができる。ときどき、誰かが君の近くにやってきて青いバスのことを思い出させてくれるかもしれない。「パパ、うまれるとき、青いバスに乗ってきた?」とか。そういうときは聞き流さないようにするんだよ。そんなことを言い含められて、僕は3丁目の停留所を降りた気がする。もう何十年も前の話しだ。

走っていると、本当に意味不明な妄想が浮かんでは消えていく。きっと走りながら妄想を消化しているのだろう。そして消化することで、バランスをとっているのだと思う。バランスがとれていると、青いバスがすぐそばを走っているのを見ることができる。青いバスは、よい音楽であったり、悲しい物語であったり、誠実に働いている人の笑顔であったり、遠くの死者であったりする。

そういうものたちと一緒にいると、自分1人では行けなかったようなところに行くことができる。あるいは僕はずっと青いバスに乗っていたのかもしれない。だから何とか今年1年乗り切れたのかもしれない。ランニングをしていると時々、自分が動いているのではなく、地面の方が動いているように感じられるときがある。そして、自分が何かを考えているのではなく、頭の中で勝手に考えが言葉になってくるときがある。自分は何ひとつしていないのに、走り、考えている。ただ、青いバスに乗っているだけなのかもしれない。



21:10:14 | tonbi | |

28 December

柳の葉が落ちる


夕方5時になると夕焼けチャイムが鳴る。「夕焼け小焼け」のメロディーが町に流れ、子どもたちに帰宅をうながす。窓から西の空に目をやると、地平線の上がまだオレンジ色に明るい。少しずつ日が長くなっているのだ。

気づいたら今年もあとわずかということになっていた。10日ほど前に風邪をひき、体制を建て直すことなく今日に至ってしまったという感じだ。それでも昨日、今日と土手を12kmずつ走る。家から荒川の土手に出て、そのまま上流に向かい岩淵水門で折り返す。もう何年も走っているコースだ。

何年も走っているが、冬の北風には慣れることができない。土手に出てから北風に向かって走る。わずか20分ほどだが、なかなかしんどい。背中は汗ばむくらいに温かいのだが、体の正面からどんどんと体温が奪われていく。パーカーのジッパーをあごの下まであげ、手袋を二枚重ねる。

体温だけではない。体力そのものが奪われていく。自分の体力を使い果たすという夏のばて方とは違う。外側から体力を削り取られていくような疲れ方である。こんなことをしていると寿命が縮まるのではないかと思う。

それでも自然の少ない下町に住んでいる人間としては、1年を通して土手を走るのは楽しいものだ。北風もそうだが、さまざまな季節の表情に触れることができる。今日は柳の葉がほとんど落ちていることに気づいた。秋が過ぎ冬になる。そのあいだ、さまざまな木々が色づき、葉を落とすのを見ていた。走りながらいつも柳を見ていたのだが、柳というのはかなり遅くまで緑色の葉を残すもので、黄色くなってからもなかなか葉を落とさない。その柳が葉をほとんど落としていた。

「そうか、ついに柳の葉も落ちるのか」そう思った瞬間に、今年の3月の半ばの荒川市民マラソンの帰り道、柳の新緑が芽吹くのを発見した時のことを思い出した。あれから9ヶ月。そしてあと3ヶ月たてば柳がまた新緑の黄緑色にそまりはじめる。

水門で折り返し川を下る。風がぱたりと止む。背中から吹く風と自分のランニングのスピードにほとんど差がないからだ。晴れていれば信じられないくらい穏やかな状況になる。太陽の熱でどんどんと汗が出てくる。パーカーを脱いで腰に巻き付ける。「北風と太陽」みたいだ。昨日、今日と2日走って、やっと自分がもとに戻りつつあるのを感じる。

とくに何を書こうという目的もなく、ブログを更新しようという気にもなってきた。リハビリである。明日と明後日。あと2回今年はランニングをする。走り収めである。明後日の夜は「ゆらゆら帝国」の年末ライブである。そうそう、それと家の掃除をしなくてはならない。書きながら日常生活に焦点があってきた感じがする。

20:47:59 | tonbi | |

24 December

風邪でダウン

先週の金曜日から火曜日まで風邪でダウンしていた。金曜日の昼頃から少しずつ体調がおかしくなった。先手を打って午後の3つの予定をすべてキャンセル。守りに入ったが時すでに遅く、夕方くらいからどんどん熱が上がる。結局、月曜日の深夜まで熱が上がったり下がったり。久しぶりの本格的な風邪だった。

病気になるといつも思うことがある。今回も布団の中で思った、「いま自分は『千日回峰行』の途中でなくてよかったな」と。千日回峰行とは天台宗で行われている厳しい修行である。千日回峰行をおこなうためには、まず「十二年籠山行」と「百日回峰行」を終えていなければならない。その中から選ばれたものが、7年間で合計一千日を回峰し「満行」とする厳しい行に挑むことができる。千日で歩く距離は約4万km、ほぼ地球一周である。

この行、ちょっと風邪をひいたので今日はお休み、などということはできない。行者は途中で行を続けられなくなったときは自害する決まりになっているからだ。首をつるための紐と短刀をつねに身に付け、白装束に身を包み草鞋ばきで比叡山中をひたすら歩くのである。夜中の2時に出発し、約6時間かけて30km以上を真言を唱えながら歩く。

3年目までは年間100日。4、5年目はそれぞれ200日。5年で700日の回峰行である。それが終わると、「堂入り」が行われる。これが苛酷である。9日間にわたる断食・断水・断眠・断臥(横たわらない)行である。この行を終えると行者は大阿闍梨となり、自分のための自利行から、衆生救済のための化他行に入る。ようするにさらに長い距離の回峰行をおこなうのだ。

6年目は1日60kmの行程を100日。7年目は計200日。はじめの100日は1日の行程が84kmにおよぶ京都大回りで、後半の100日は1日30kmの行程。千日回峰行を終えたものは、京都御所へ土足のままの参内が許される。

中学生か高校生の頃、千日回峰行のドキュメンタリー番組を見たことがある。そのとき心に残ったのが、この行をおこなう行者はかならず途中で病気をしたり怪我をする。楽には終えられないように何らかの問題が必ず起こる、という言葉だった。定かではないが、あの時、行者は脚を怪我したのだと思う。脚を怪我しながら、京都大回りをやっていたのだ。

午前2時から暗闇の山中を歩き、昼間の京都を歩く。信者達が道端で数珠をもち阿闍梨を待つ。阿闍梨はその一人一人に数珠をかざし真言を唱えてこたえる。帰り着くと夜の8時とかそんな感じだったと思う。ちょっと寝て、また2時から同じことを繰り返す。雨が降っても、風邪をひいても、怪我をしても。

逆境を乗り越えたものだけが次の自分に行ける。どんな場所にも当てはまるシンプルな事実である。シンプルではあるが、多くの時間とエネルギーを費やした分、次の自分は大きい。千日回峰行で目指しているのは「不動明王」と一体となることである。

「一体」というと、「私」が不動明王と合体する、「私」が不動明王の力を手に入れる、などと受け取るかもしれないが、それは違うだろう。一体という言葉が示しているのは、「私」という「器」を「空っぽ」にすることで、その「器」に「不動明王」が入ってくるということだ。苛酷な回峰行において自分の器を空っぽにする。徹底的に空っぽにする。あまりに空っぽなのでそこには「不動明王」さえ容れることができる。そうすれば自分の中身は不動明王である。

これは僕が考えている「成長」と同じである。成長とは自分を強化することではなく、自分以外の何ものかを自分の中に受け入れることである。受け入れるためにはそのためのスペースを空けておかねばならない。よりひろいスペースを作るために「我」を徹底的に追い出しておかねばならない。「我」は追い出しておかねばならないが、受け入れる「器」はよりしっかりしたものにしておかねばならない。おそらく千日回峰行とは、「我」を追い出すことと「器」を宇宙大に広げることを同時におこなっているのだろう。

僕は風邪をひいてしっかり休んだ。休んで復活しただけだから、もとのままである。何の成長もない。不動明王の気配は感じない。まあ、そんなものである。年末の仕事もまだまだ山積みである。1つずつ片づけて、もう少し体調が戻ったら軽いランニングを再開しよう。


12:30:25 | tonbi | |

17 December

100年に一度の危機


先日、内田樹のブログで「100年に一度の危機らしいけど」というエントリーを読んだ。「100年に一度の危機」が起こっていると騒いでいるが、世間を見回しても「ボーナスが減りそうだから買い控えをする、売り上げが減ったので非正規労働者を馘首する、貸し剥がしをする、ばらまき財政をする」など、これまでとなんら変わらない風景しか見えてこない。とても100年に一度の対処のようには見えない。

そこから演繹できる可能性は2つある。1つは、今起きている変化は「100年に一度の危機」などではなく、「よくある危機」にすぎないものである。もう1つは、今起きている変化は「100年に一度の危機」ではあるが、みんなどうしていいのか分からないので、「よくある危機」のときと同じようなルーティン的な対応をしているというものである。そんな内容のエントリーである。

この変化が「100年に一度」かどうかはノグチにはよく分からない。ただ「状況は変わったな、今までと同じようにやっていたら生き残れないかもしれない」ということは直観的に理解した。状況が変わったら、今までと同じでいるために、今までと違うことをしなければならない。

違うことをする。頭では分かっているが案外難しいものである。違うことをする場合、人がとれる手段は大きく2つに分かれる。1つは量的な変化により違いをだすこと。もう1つは質的な変化により違いをだすことだ。一般的に、人はどうしても量的な変化で違いをだしたがるものである。

さらに厄介なのは、本人が誤解している場合が多いことだ。端から見ると量的な変化しか行っていないのだが、自分では質的な変化を行っていると思っている。なぜそういうことが起こるかというと、自分自身の思考や行動のパターンに目を向けず、対処せねばならない出来事の多様性の方に目が向いているからである。出来事はつねに多様である。出来事に合わせて多様に対処しているうちに、質的に違う対処をしていると勘違いしてしまうのである。

「金太郎飴」。人が行っていることは基本的には金太郎飴みたいなものだと思っている。切っても、切っても、同じ絵柄が出てくる。金太郎飴とはそういうものだ。人の思考や行動も同じで、考えても考えても、行動しても行動しても、同じようなことしか思いつかないし、行動しかできない。金太郎飴をより長く、より太くすることで、改良しようとするのと同じように、自分の思考や行動もただただ肥大化させようとする。

質的な変化というものは、新たな絵柄の新たな味の金太郎飴を作るようなものだ。それは非常に難しいことだ。それなりに商売が上手くいっている金太郎飴を作ること1度やめ、そのリソースを新たな金太郎飴を作ることに振り向けねばならないからだ。人の思考や行動に置き換えれば、とりあえずここまで生きてこられた考え方やふるまいを1度やめて、新たなものを作り出さねばならないことになる。

おそらくそのような質的な変化を「成長」と呼ぶのだろう。今までの自分の思考や行動を量的に肥大化するのではなく、今までの自分の考え方やふるまいとは「別の考え方やふるまい」ができるようにならねばならない。そのような成長の一例が村上春樹の『海辺のカフカ』に見事に描かれている。

どこにでもいる普通の青年のホシノくんが、ナカタさんと行動をともにするうちに、変わっていってしまう。ナカタさんがホシノくんに知識や情報や何らかのテクニックを教えたからではない。ナカタさんは幼いころ奇妙な出来事に巻き込まれ、文字も読めないような人間なのだ。そして彼はただただ何かに突き動かされるように四国を目指して行動する。全くの無欲で空っぽである。資本主義的な価値観からすればもっとも無価値な場所にいるような存在である。そのようなナカタさんと一緒に行動をし、ナカタさんが死んでしまった時、ホシノくんはこんなことをいう。

『「俺はさ、おじさん、こう思うんだよ」と青年は続けた。「これから何かちょっとしたことがあるたびに、ナカタさんならこういうときにどう言うだろう、ナカタさんならこういうときにどうするだろうって、俺はいちいち考えるんじゃねえかってさ。なんとなくそういう気がするんだね。で、そういうのはけっこう大きなことだと思うんだ。つまりある意味ではナカタさんの一部は、俺っちの中でこれからも生きつづけるってことだからね。」』

それまでの自分の思考とは別の考え方をする、それまでの自分の行動とは別のふるまいをする。そのためには自分とは別の何かを受け入れるスペースを空けておかねばならない。「空けておく」の「空」という字は、仏教用語では「空=クウ」である。空っぽということである。自分という「器」を「我」でいっぱいにするのではなく、「我」が「無」い「空っぽ」の状態にすることが必要なのだ。空っぽの器だからいろいろなものが入る。入っては出る、出ては入る。その時、その場所に随って自在に変化する。

資本主義社会ではお金の流動性が問題になっている。それも大切だが、自分という「器」の流動性はもっと大切である。流動性のない「器」をした人間ばかりが集まれば、あらゆるところに流動性がなくなるのは当然のことである。



12:19:16 | tonbi | |

15 December

しんどいけどさ


月の半ばで115kmのランニング。週末に少し休んだわりには悪くない数字である。単純計算しても230kmになる。(目標は250kmあたりにしよう)。ランニングからは本当にいろんなことを学べている。日々の積み重ねがきちんとした結果に繋がるという実感を得たことはもっとも大きな収穫である。

コツコツとよく頑張りますね、と人に感心されることがある。えらいですね、と。確かにコツコツとやってはいるし、楽ではない。だが、べつにえらいわけではない。好き勝手でやっているランニングである。バブル期の最後が大学時代と重なっている人間に共通しているのか、単なる僕の問題なのかわからない。楽をして多くの利益を得ることが価値であるような考え方をしていた。

この考え方からすれば、「楽であること」と「苦しいこと」の間にはどちらを取るのかという選択の余地がある。しかし、齢を重ねるにしたがって「楽」などないのではないかと思うようになってきた。あるのは「しんどいこと」だけである。(そう言えば、お釈迦様も「四苦八苦」という言葉を残している。同時にその苦からの「解脱」も説いたところがすごいのだが)。そして「苦しいこと」には2種類がある。自分で選んだものか、人から押し付けられたものか。この2つだ。

そうであるならば、自分の好きなように生きるというのは、「楽」を求めることではなく、どのような種類の「しんどさ」を引き受けるのかということになる。「自分で選んだ」しんどさを引き受けるか、「他人に押し付けられた」しんどさを引き受けるか。

自分で選んだ「しんどさ」ですべてを埋め尽くしてしまおう、そんな風に思うようになってから、しんどいランニングもある種の手応えとして感じられるようになった。(ランニングで楽をしてしまえば、そのぶんどこかから別の形のしんどさがやってくるだけだ)。

「自分の選んだしんどさ」だけですべてを埋め尽くし、「他人から押し付けられるしんどさ」が入り込む余地をなくす。考えようによっては、単なるわがままだ。自分がやろうと思ったことだけで時間切れにしてしまおうというのだから。一歩まちえれば他人からはひどく嫌がられることになる。大切なのはけっして自分だけが得をしないことである。自分も相手も半歩ずつゆずり合い、両者の間のどこかに落とし所を見いだすことである。

自分が一歩も動かずに相手を呼びつけるのもダメ。すべて相手の言いなりになり自分だけが動くのもダメである。お互いがきちんと動くのである。どちらがどのくらいどう動くのかは、それぞれの場合による。1つ言えるのは、動ける力のあるものがより多く動くべき、ということだ。でも多くの人間は相手を動かせるほど自分に力があると考えてしまう。

本当に力のある人間は、自在に動きながら相手と調和をとることができる。他人を支配することを力だと思い込んでいる人間は、自分は動かず他人を呼びつけようとする。そして自分が動かないからいつのまにか動きが鈍くなる。動きが鈍いといろんなものが逃げていき、追いかけても捕まえることができない。よいものはみんな逃げて行き、つまらないものばかりが自分の周りに残ることになる。



20:36:21 | tonbi | |