Archive for April 2009

27 April

ゆらゆら野音ライブ


日曜日、ゆらゆら帝国のライブに行ってきた。日比谷野外音楽堂でバンド結成20周年のライブだ。多少風が強かったが、朝から青空のくっきりした4月の終わりの暖かい日曜日だった。日比谷公園では、友だち同士でベンチに座ったり、恋人同士で芝生に寝ころんだり、家族連れがバドミントンをしていたり、それぞれが春の1日を楽しんでいた。

夕方の5時の開場にあわせて公園を歩いていくと、門の前には露店が出ている。焼きそばやらビールやらを威勢の良い声で売っている。春の風に乗って焼きそばの香りが漂ってくる。座席で開演まで1時間ほど待つ。友だちが記念のTシャツを並んで買ってくれる。少しずつ日が落ち、冷たい風が流れ込んでくる。

沈みかかる太陽が青空の小さな白い雲を下からやまぶき色に照らす。空が少しずつ淡い群青色に変わっていく。そんなものを眺めていたちょうどその時、「きゃー」という歓声と拍手が起こり、みんな一斉に立ち上がる。慎太郎さんたちの登場だ。

「あ、どうも」といういつも通りの挨拶をし、ゆっくりとした感じで曲が始まる。イントロが流れる、『星ふたつ』だ。ライブでやることは滅多にないが名曲だ。抑えのきいたドラムにしっかりしたベース、そして丁寧で美しいギターが野外音楽堂に鳴り響く。音は会場から公園内に広がり、そのまま暮れていく空に広がっていく。リキッドルームのようなライブハウス空間が音という音でいっぱいに満たされていくのもよいが、音が宇宙に解き放たれていくような野音の雰囲気もとてもよい。

頭で音を追いかけながら、少しだけ体がリラックスしてくる。背の高い緑の木々が風にゆったりと揺れている。ギターがゆっくりとサビの部分を弾く。突然、音が変わる。頭ではなく、体にダイレクトに響く。ギターの出す響きが体の響きと同調する。身震いをしてしまうような素晴らしさだ。曲が終わった時には誰もがライブに巻き込まれている。

ゆっくりとした曲があり、アップテンポな曲があり、新曲があり、2時間のライブのあいだほとんど休むことなく曲は続いた。実際、観客がバンドについていけず体力負けをするシーンが何度かあった。みんな音楽にノッている。曲がどんどん勢いを増し、テンションが上がってくる。観客が最高潮だと思うところに達する。それでも慎太郎さんたちは、もっともっと遠くまで深くまで音を突き詰めていく。そのテンションに着いていけなくなり、1人2人とぼう然と立ち尽くすようになる。再びノリやすいテンポに戻ってもすぐには音楽に戻れずにいる。

ゆらゆらのライブに行くと、必ずといっていいほどこういうシーンがやって来る。その度に、頭の下がる思いがする。その場の勢いとか、ちょっとした思いつきでこういうことは出来ない。日々の積み重ねによってのみ可能なことだ。そしてこういうものは簡単には消費されない。(そう言えば、アルバム『空洞です』を出した時の慎太郎さんのコメントに「極限まで音を減らして聞きやすくしたが、簡単に消費されないものを作った」というのがあったと記憶している)

気がつくと日はとっぷりと暮れている。みんな自分の好きなように音楽を聞いている。直立不動で真剣に聴いている人。腕を組み、体は動かさないが、頷くように頭を小さく上下させている人。目をつぶりながら音楽に合わせてゆっくりと体をゆらしている人。激しく腰を振りながら踊っている人。腕を突き上げ飛び跳ねている人。そして慎太郎さんは独特のステップを踏みながら、髪を振り乱してギターを真剣に弾いている。かっこいい人だ。

僕はといえば、ここのところ体の箍(たが)が外れてきたようだ。5年前は音をしっかり聴き取ろうと、ほとんど直立不動で聴いていた。それが少しずつ、音楽に合わせて頭が前後し、肩がゆれだし、ゆっくりと全身でリズムを取るようになってきた。さすがに腕を上げて踊ることはしなかったが、気がついたら音楽に合わせてしなやかに体をゆらせながら心地よく踊っていた。もう少しでステップを踏み出すところだった。

僕が60歳になってもゆらゆら帝国がバンドを続けていたら、上手にステップを踏んで腕を上げながらしなやかに踊ってみせよう。年を重ねるほどにどんどんとネジが外れていくようだ。いい感じである。


21:12:34 | tonbi | |

26 April

合気道の精霊


2週間ほど前に合気道の昇級審査を受けた。他の道場のシステムはわからないが、僕が通っている道場では4月と7月ころに審査をする。4月と7月の両方を受けることは基本的には出来ない。どちらかで審査を受ける。昇級に関しては秋に演武会があり、そこで演武すると大抵の場合は昇級できる。ふつうにやっていれば、1年に2級は進級できる。

先日、僕が受けたのは4級。一番下が5級で、これは昨年の秋の演武会でもらった。つまり審査を受けるのは今回が初めてとなる。4級で審査される技は全部で5つある。「相半身入身投げ」「正面打一教」「肩取二教」「横面打四方投げ」「呼吸法」である。

いずれも極めて基本的な技である。しかし、武道や芸道の一般として、基本的な技はそのまま奥義に繋がる。そんなわけで、10年やっているような人でも、「まだまだ一教はきちんと出来ない」というようなことを口にする。おそらく技というものは、いつまでたっても完全に習得したと言えるようなものではないのだろう。何かを身につけては、さらに技を磨いていく。そんなことを繰り返していくのだろう。(繰り返し稽古して技を磨くと言うが、実際は技を繰り返すことを通して自分を磨いているのかもしれない)。

極めるのは難しい技だとはわかっていても、実際にはその技で審査を受けることになる。受けるとなれば「ちゃんとやらなくては」と思い、稽古に励むことになる。ここにおいて、いつの間にか審査が本番で稽古がそのための準備という目的と手段の分離が起こっている。これは〈いま・ここ〉で行っていることをそのまま楽しめなくなる構造である。〈いま・ここ〉で行っていることは、〈未来〉の目標ための手段としてのみ価値を持つことになる。

まあそんな感じで稽古をしていて、あるときふと気づく。結局、きちんとした技など出来ないのだから、審査を目標にするのはやめた方がよいのではないか。稽古では技を1回1回真剣にやり、審査でも技を丁寧にやる。そしてそれまでで一番よい技を審査で見せればよいのだ、と。そう思ったら、審査は何回も繰り返し稽古する技の1回でしかない、いや貴重な1回なのだと思えてきた。実際、そんな感じで審査を受けた。たぶん合格しているだろう。

技を身に付けるには長い時間がかかる。でもとりあえずの型を覚えるにはそれほど時間はかからない。しかし本当の稽古は型を覚えてから始まるといっても過言ではない。何度も型を繰り返していると、下手ながらも「ああ、上手くいったな」とか「ちっ、失敗した」というときがある。不思議なことに、上手くいった時は自然と上手くいったという感じがするし、失敗した時は自分が下手なことをしたという感じがする。

自分が技を上手くやった、何かが邪魔をして技が失敗した、という感覚ではないのだ。世間では、自分が何かを成功させることを目標にし、その達成を邪魔する外的な要因を排除するというやり方で成功を収めるのが主流である。しかし合気道の稽古では反対である。成功した時には自分が何かをしたという感覚はなく、失敗した時に自分が技の邪魔をしたという感じを持つ。

頭で考えてやる技はダメで、技は身体化され自然に出なければならない。よく言われていることなのだが、このことの語り口を変えてみると面白い。技が上手くいくのを邪魔するのは〈私〉(これを〈我〉と言い換えることもできる)である。だからうまい技を出すための稽古とは〈私〉が出てこなくするためのものである。稽古とは技の最中に〈私〉が出てこなくするために、わたしが行うものである。

では技を行っているのは誰だ、という問いが当然出てくる。この時に、「合気道の神様」のようなものが考えられても不思議ではない。(ここで言う神様とは、一神教的な大文字のGodではない。どちらかというとspirits、小さな神々、精霊といったものである)。技を行う時に自分を空っぽにし、その空っぽの自分の中に合気道の神様や精霊のようなものが降りて来る。そして見事に技がきまる。まさに神業である。(この辺りのことは、中沢新一著『精霊の王』にもある)

個人的には、合気道の精霊という感覚は持っていない。しかし自分が何らかの技を行うということは、自分という器を通して、合気道の技がこの世界に形をあらわすことなのだという予感はしている。自分が合気道の技を行うのではない。合気道が僕の身体を通すことで具体的な技として姿を現すということである。その姿が現れるのを邪魔しているのが〈私〉である。だから、合気道の稽古をするということは、〈私〉が技の邪魔をしないようにすることにほかならない。邪魔をしない、でしゃばらないようにする稽古というのは、自分を磨くことでもある。きちんとした技が出てくるまで、自分を磨くまでにはとてつもない時間がかかりそうである。




23:18:24 | tonbi | |

24 April

出来事は嘘をつかない


先日、Podcast番組である女性科学者の話しを聴いた。科学というものは仮説と実証を繰り返すものです。ある出来事について仮説を立て、その仮説が正しいかどうか実証していく。それを繰り返すのが科学です。よい科学者というのはよい仮説をどれだけ立てられるかです。そして仮説が正しいかどうかは、自然が答えを出してくれます。自分の仮説が正しいと思い込んでいても、それが間違っていれば、自然は必ず間違っているという答えを出してくれます。自然は嘘をつきません。などなど。

「自然は嘘をつきません」というのはとてもよい言葉だと思った。正しさというものは自らの信念、考え、思いなどの中にあるのではなく、自らを取り巻く世界の中にある。だから自らの思い込みに合った出来事を世界に求めるのではなく、謙虚に出来事をみつめ自分の思い込みを正して行くことが大切だ。自然は自分の思い込みを正してくれるようにつねに同じようにある。そんなふうに受けとめることが出来る。

仮説という自分の思い込みを自然が正してくれる。科学がそのようなものだとすれば、その考え方には僕も同意する。出来事のほうから考える、という僕の用いている考え方と基本的には同じである。考えるというのは自分がしたいことをまとめ上げることではなく、出来事たちがどのように動こうとしているかを見極めることである。出来事の動きを見極めるのを邪魔する一番厄介なもの、それが思いや期待や欲望である。それらを総称して「我」と呼ぶならば、「無我」こそが出来事を見極めることになる。

科学においては、観察主体と観察対象が分離されている。主体が対象を客観的に認識するというかたちで知が形成されている。対象は物質であり、認識主体は対象に影響を及ぼさない。主体の仮説と、対象の自然は明確に分かれているから、仮説が実証されなかった時には、すぐさま仮説が間違っていたと結論を出すことが出来る。その意味では極めて分かりやすい。

それに比べて、日常を出来事のほうから考えることはより複雑である。日常の出来事は物理法則だけによって動いているのではないからだ。出来事は物理法則と同時にさまざまな思いによって動いてもいるからだ。その上、考える主体(つまり私)は、出来事から切り離された観察主体ではない。つねに出来事に影響を与える当事者であると同時に、出来事を見極めるものでなければならない。主体と客体が侵食し合い、影響を与え合いながら、全体としての出来事を成り立たせていく。

日常とはそのような時処のことである。そのような中で、何が正しくて何が間違っていたのかを切り出すことは困難である。困難である以上にあまり意味のあることではない。大切なのは、出来事に合わせて適切に振る舞うことで、より豊かな出来事をその場に成り立たせることだ。出来事を欲望の対象とするのではなく、出来事を豊かにするために自らを変化させていくことだ。

正しいか、間違っているかを基準とするのではなく、出来事の動きに合っているか背いているかを基準に日常を一つひとつ編みなおした方がよいのだろう。思いと違った、予想と違った、計画通りに行かなかった。そんなことがおこったとき、正しい、間違っているというわかり方をやめてしまうのだ。正しい、間違っているというわかり方をすれば、自分か世界、私かあなたのどちらかが間違っていることになる。間違っているものを正そうという欲望の対象が必要な関係世界が出来てしまう。

思いや予想や計画、それらが出来事とズレたとき、自分が出来事に何を期待していたのかを掴むことである。私が望んでいた世界と現実に目の前にある出来事のズレ、そのズレている部分こそ「私が世界に期待していたこと」であり、「実際には世界に存在しないもの」だからである。実際には何ものをあるはずだと思い込み、それに振り回される。仏教ではそのようなものを「無明」とか「迷妄」とよぶ。思い込み振り回されている「無明」で「迷妄」なもの、それは〈私〉であり〈あなた〉であり〈みんな〉である。

そのような認識のもとに修行が必要となる。修行とは何かといえば、自分が出来事をどのようにしたいかではなく、出来事の方からすべてを見ることである。出来事がどのように動こうとしているのかを見極めようとすることである。そのためには…………。


12:11:41 | tonbi | |

20 April

トラブルの予感

前回ブログを書いたのが、先週の水曜日だったはず。少しばかり日にちが空いてしまった。ブログを書き続けるというのはランニングを続けるのと似ている。一気に無理をしてやり過ぎるとどこかが故障するが、あまり時間を空けてしまうと動きが重くなり書くのが億劫になってくる。

ちょっと億劫になっている。そんな時は、軽いジョギング程度の感覚で書くのがよい。息が上がらない程度にゆっくりと、周りを見ながら楽しめる程度に走る。同じように、身近なことを焦らずに、簡単に書いていく。人のジョギングを見ていてもたいして面白くはない。同じように……。

週末、家族で那須にキャンプに行った。キャンプはいつものように楽しいものだった。今回はゆったりと座れるイスを新たに購入したので、イスに座って青空を眺めたり、風に合わせゆっくりと揺れる木々を眺めたり、目をつぶって森の音に耳を傾けたり、夜空の星を見上げたり、ゆらめく焚き火の炎を飽きることなく眺めていたりした。(子どもたちも楽しそうにしていた。子どもの描写には集中力が必要なので、詳しいことは割愛する)

大分、回復した感じがする。先週の後半から世界に焦点が合わなくなっていた。焦点が合わなくなるといろいろなトラブルが起こる。経験的に言って間違いない。にもかかわらずちょっとしたトラブルが連続した。

1つは金曜日の夕方。子どもたちを連れて、キャンプの準備の買い出しに出かけた時だ。日は暮れ雨が降っているので、車を運転するにはあまり視界がよくない。雨の夜という現実的な条件以上に、自分の視覚機能が落ちている感じがする。必要以上に世界は暗く、奥行きが感じられない。

まずいな、こういう時は運転の気をつけないと、そう思って慎重に運転していたのだが、細い路地に入り込み、左折する時にドアを軽くこすってしまった。細い曲がり角だが、一応、角の直角の部分は削ってある。そこを注意深く見ながら曲がっていると、「ズーッ」と変な音が低いところから。何と、削ってあったのは角の上の方の部分だけ。下の方はきちんと角が残っていた。やれやれ、イヤな予感が当たってしまった。

2つ目は、その日の夜。キャンプの準備で車に荷物を積み込んでいた時のこと。
我が家族のキャンプはやわなものなので、寒さに供えてホットカーペットを持っていくことにした。(寒ければテント内に敷くのである。実際はTシャツでいられるくらいの暑さだった)。ホットカーペットを抱え、エレベータに乗り込む。閉まる扉を目で追っていると、コンセントの先の部分がまだエレベータの外側に出ている。どこかでほどけてしまったのだ。

慌ててたぐり寄せるが扉は閉まる。急いで「開く」ボタンを押すものの、エレベータは下降を始める。コードがどんどんとエレベータの左上の方に引っ張られていく。続いてホットカーペットの本体が上っていく。(実際には、僕が下がっているだけなのだが)。

どうにもならないということはすぐに理解できたので、慌てることもない。事態を静観しながら「エレベータは停まるのかな、停まったとなるとマイクを通して説明することになるのか。どう説明すればよいのだろう。ホットカーペットのコンセントが扉に挟まれてコードが伸び切って……。意味不明だろうな。それよりもホットカーペットがないと明日のキャンプの準備を考え直さねばならないな。疲れているのに面倒だな」。そんなことを考えていたら、カーペットが天井まで引っ張られ、コードが「ビチン」と切れた。

再び、エレベータで部屋まで上り、切れたコードを本体に繋ぎ直すのに30分くらいかかる。疲れがどっと増した。ホットカーペットのコードはほどけやすいのでいつも注意していたのだが、今回は少しぼーっとしていたのだ。やれやれである。

3つ目はキャンプ場でタープ(日よけのテントのようなもの)が飛ばされた。昼間は全く風がなかったので、タープ本体のペグだけ打ち込んで、紐で補強をしないままにしていた。夜中の12時頃から何やら風が吹き始める。遠くで「ごーっ」という音がしたと思うと、数秒遅れてテントに風が当たる。多少強いとは言えそれほどでもない。が、このところのトラブル続きを意識して、眠い目をこすりながらタープ全体の高さを低くする。一番高いところで1メートルくらいである。これなら問題ないだろう。

うつらうつらしながら時おり強く吹く風が気になる。とは言え、夜中の2時近くにタープを撤収するのも面倒だ。風が気になっては眠りに落ちる。そんなことを繰り返していると、突然「ガラガラ、ガッチャーン」という物が落ちた音がする。中身が飛ばされると困るので、仕方なくテントを出てみると、目の前にあったタープが消えている。

風下を見ると木の間に引っかかっている。縦横2.5mの屋根付のタープである。急ぎ駆けつけ、屋根の部分の布を外す。ひっくり返り木の間に挟まっているので、簡単には行かない。次の強い風がさらにタープを煽る。布を外して車の中に投げ込む。次はフレームの撤収である。脚が2本ほど変な角度に曲がっている。去年の秋に買ったもので、まだ2回目の使用である。午前3時過ぎ、さすがにフレームの修繕をする気にはなれない。おまけにすごい風である。とりあえず自分のテントサイトまで運び、短い睡眠をとる。やれやれである。

そんな感じで、今ひとつ文章を書くことに気が乗らない日が続いた。これを書いてみて、少しほぐれた気がする。思ったより長くなった。ジョギングしていたら、思ったより楽なのでついつい距離を出してしまった時のような感じだ。あまり間を空けると毎回ジョギングのようになってしまう。次回は早めに書くことにしよう。




23:50:56 | tonbi | |

15 April

鳩の神さま


先日、窓から外を眺めていたら、ベランダの中に鳩が飛び込んできた。時おり、欄干に留まっていることはあるが、ベランダの中にまで入ってくる鳩はそれほどいない。大胆なヤツである。間髪を入れず、窓を開けてベランダに出ると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔でこっちを見て、慌てて飛んでいった。

机に座り、この摩訶不可思議なる世界についてしばし沈思黙考。誰一人存在しない宇宙における言葉と存在はいかなるものか。何やら猫がにゃご、にゃごやっている。耳を澄ますとベランダの方から、ぽっ、ぽっ、と声がする。再びベランダに出ると、さっきの鳩がまた慌てた顔で飛んで逃げていく。

懲りないヤツだ、と思った瞬間、物陰からもう1羽の鳩が、慌てて走り出てくる。動物的に襲いかかろうとする僕を見て大慌てで飛び去っていく。何で鳩が2羽もいるのだと思い、鳩が飛び出てきたベランダの隅を見に行く。

鳩は物陰のスペースに巣を作ろうとしていた。鳩が自分でむしったとおぼしき胸の羽が落ちている。おいおい、いい加減にしてくれよ、こんなところで卵でも生まれたらたまったもんじゃない。まったく何を考えているのだ。ブツブツと不平を言いながら、箒で掃除をして、物陰のスペースを埋めるように物を並べ直す。

並べながら、鳩にとって僕は荒ぶる神のような存在だなと思う。若い鳩のカップルである。あるいは両方の家族に反対され、駆け落ちするように2人空を飛び、やっと見つけたのがわが家のベランダの物陰だったのかもしれない。ここなら雨風をしのげるし、野生の犬猫もいない。

まずは小さな家を造り、力を合わせてやっていこう。いずれ子どもたちが生まれたら、双方の家族に見せに行き、自分たちを認めてもらおう、頑張ればその内によいこともあるさ。そんなふうに思っていたのかもしれない。

それをである。いきなり2足歩行の巨大な生き物がやってきて、何やらわめきながら自分たちの家を壊している。鳩にとっては自然の驚異であり、天災である。圧倒的な力で鳩の生活を脅かしかねない存在である。鳩がその事実を畏怖したとすれば、そこにはプリミティブな神の概念が発生したことになる。荒ぶる僕をなだめようと、木の枝でも持ってきて「ぽっぽ、ぽっぽ」とやれば、鳩祭りの発生ということになる。

しかしその後、鳩はやって来ない。そっとベランダに木の枝が置いてあるということもない。僕は鳩の神になりそこねたわけである。鳩たちは神なしで、どこかで巣作りをしては壊され、それでも力強く大空を飛んでいる。


08:24:43 | tonbi | |