Archive for May 2009

30 May

一遍の「捨てる」


前回の続き。一遍の「捨てる」ということについて。一遍は「捨聖(すてひじり)」ともいわれるように、「捨てる」という言葉が語録の中にも頻繁に出てくる。死ぬ前に、所有していた書籍すべてを燃やしてしまうのも「捨てる」ということだし、熊野権現でお告げを受けて遊行の旅に出る決意をした時にも、妻や子どもと離別している。語録からいくつか言葉を引用しながら考えてみる。

まず一遍は、なぜ「捨てる」ということを言うのだろうか。
『ある人、念仏はいかが申すべきやと問いければ、「捨ててこそ」とばかりにて、……』
念仏というのは「南無阿弥陀仏」と称えること、つまり「称名」である。どのように「称名」するのですか、という問いに対して「捨ててこそ」と答えている。当然といえば当然だが、一遍にとって「捨てる」ということは、「称名」「南無阿弥陀仏」「名号」のためということになる。

では、いったい何を「捨てる」のか。
『はやく万事をなげ捨てて 一心に弥陀を憑(たの)みつつ』
『我らは下根のものなれば、一切を捨てずは、』
「万事」とか「一切」とある。基本的にはすべてを捨てるということである。そのすべてを具体的に述べているのが次の言葉である。

『中根は、妻子を捨つるといへども』
「妻子」も捨てるのである。上に書いたように、実際、一遍は妻子と離別している。

『念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賎高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸宗の悟りをも捨て、一切のことを捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にもっともかない候へ。』
ここにはより具体的に「捨て」ねばならないことが挙げられている。「智恵」「愚痴」「善悪の境界」「貴賎高下の道理」「地獄を恐れる心」「極楽を願う心」「諸宗の悟り」などである。 

「愚痴」や「悪の境界」や「地獄を恐れる心」を捨てるのはわかりやすいが、「智恵」「善の境界」「極楽を願う心」なども捨てねばならないのは何故なのだろうか。「極楽を願う」というのは「西方浄土に往生したいと思う心」である。すると、浄土に往生することを願いながらも、浄土に往生することを願う心を「捨てる」という奇妙な事態が要求されていることになる。

これに対しては2つの点から答えらしきものを提示することが出来る。1つは仏教一般的な考え方に基づくもので、相対的な考え方を離れねばならないというものである。「相対」ということが言えるためには、「相対する個別のものの存在」というものが前提されていなければならない。まず初めに別々に分かれたものがあって、それらが関係付けられる。こういう考え方を仏教では「分別」といい、この「分別知」を離れることが「悟る」ということである。

引用は相対的な言葉から成り立っている。「智恵と愚痴」「善(の境界)と悪の境界」「貴賎」「高下」「地獄を恐れる心、と、極楽を願う心」などである。仏教的な考え方に照らせば、そういう相対的な枠組みで物事を見ること自体を否定していると考えることが出来る。その意味では、一遍の「捨てる」という言葉はそれほど特殊なものではないことになる。

実際、一般的に仏教では「所有」ということを否定的に捉えている。「所有」というのは、すぐに「欲」に直結する。「欲」は「執着」を生じ、「執着」は自らの目の前に思い通りにならない世界を作り上げる。そしてその今度は反対にその世界に自分が縛られることになるのだ。それゆえ、基本的に「所有」は離れるべきものとして否定的に語られる。

しかし一遍の「捨てる」という言葉はもっと強烈である。「所有しない」という言い方をしたとき、じつはどこかで「所有する主体」が想定されている。「私」は○○を所有している。だから「私」は○○を「捨て」ねばならない。この考え方でいけば、「私」がすべてを「捨て」て「無所有」に至ったとしても、「私」は揺らぐことなく存在しつづけることになる。これでは仏教で言うところの「無我」と反対のことになってしまう。(本当はもっと丁寧に議論しなければならないのだけど……)

一遍の「捨てる」という言葉が強烈なのは、捨てるべきものを「この身命」と言い切っている点である。
『仏法には、身命を捨てずして証利を得ることなし。仏法にはあたひなし。身命を捨てるがこれあたひなり。これを帰命というなり』
『その身命を捨てたる姿は、南無阿弥陀仏これなり』
何かを手に入れるためには、その代償を払わなければならない。仏法も同じだ。仏法を手に入れるためには、それに見合った何かをこちらも差し出さねばならない。最小限の投資で、より多くの利益を手に入れるという考え方は、この世界では通用しない。

仏法に見合ったもの、それは「自らの身命」である。だからその身命を「捨てる」ことが必要なのだ。自らの「身命」を捨てるということは、何者かに自らの命を「委ねる」ことである。このことを自らの「命」を「帰する」という意味で、「帰命」という。そして「南無阿弥陀仏」の「南無」とはサンスクリット語の発音をそのまま漢字表記したもので、その意味は「帰命」である。

「南無阿弥陀仏」と口に称えること、つまり「称名」することは、「自らの命を阿弥陀仏に委ねる」ということの表明にほかならない。だからこそ、どのように念仏をするのかと問われて、「捨ててこそ」という答えが成り立つのである。

「私」の存在は確実なものとして残し「所有物」だけをすべて「捨てる」。これはある程度イメージが出来る。今の自分が何も所有していない姿を想像すれば良いのである。反対に「私」を「捨て」はするが、「所有物」がすべて残っている姿もある程度イメージできる。何ものにも執着しない自分が今と同じ環境で生活していることを想像すれば良い。しかし「この身命」も「捨て」、「一切の所有物」も「捨て」ている姿を想像することは難しい。一遍の「捨てる」の大胆さはこの両方を一気に成し遂げようとするところにある(のだと思う)。

本当は、この後にも続きがあるのだが、すでに文字数も2700をこえた。それに村上春樹の新作も届いた。そんなわけで今日はこの辺で終わりにする。




22:42:58 | tonbi | |

29 May

一遍上人語録の手前


村上春樹の新作『1Q84』が「ともだちアマゾン」から届かない。昨日の朝、書店の店頭に平積みになっていて、すぐにでも買いたかった。アマゾンは僕が読みそうな本をいろいろ紹介してくれる。そんなアマゾンが早い時期から予約受付をしていたので、てっきり発売日の午前中には手元に届くものだと期待していた。これだけ楽しみにしていたにも関わらず発売日に届かないなんて、ともだちがいのないアマゾンである。

『一遍上人語録』(岩波文庫)を読んだので、一遍について簡単に書いておこうと思う。簡単に書いておくというと簡単そうだが、これがけっこう大変である。正直、小難しい言い方をしてしまった方が楽である。たとえば「一遍にとっては、すべては名号である。その意味では名号を諸法とも法界とも言い換えることも可能である。衆生はその事実をわかっていないがゆえに迷妄である。事実を知るためにはすべてを捨てることが必要である。云々」。意味不明である。書いている本人にとっても意味不明なのだから、読んでいる人にとっては余計のはずである。

一遍は鎌倉時代中期の僧である。宗派的には法然の流れをくむ浄土宗の一派で、時宗の宗祖である。とここまで書いて、はたと疑問が浮かぶ。浄土系の宗派とか書かれてもあまりピンと来ないのではなかろうか、と。ノグチにとっては浄土宗の真言宗の違いはモスバーガーとマクドナルドくらい明確なものだが、多くの人にとってはそんなことはないだろう。というわけで一遍のことを書く前に浄土系のことを書かねばならないと思ってしまう。そしてそこまで書いたところで、だんだんと書くことに飽きてきて、「今日はここまで、一遍については次回」と筆をおくに決まっている。

では浄土という考え方についてアバウトに書いてみる。浄土宗の考え方の根本になっているのは、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』という3つの経典である。(ちなみに「お経」という時の「経」が意味するところは、釈迦が説いた言葉ということであるが、歴史的な事実から言えば、大乗仏教の経は釈迦滅後に他の人物や集団が創り上げたものである)。

ここでいう「浄土」というのは「西方極楽浄土」のことである。西方のはるか彼方にある極楽世界であり、そこにいる仏が阿弥陀仏である。一般的に西方浄土というと、そこが最終ゴール地点のように受け取られているが、実は西方浄土は楽しいことばかりの極楽世界というゴールではない。厳密に言えば西方浄土とは修行の場所である。この娑婆世界ではいろいろな事情があってきちんと修行できないような人でも、楽に修行できるための場所である。1人では運動できない人のためのフィットネスクラブのようなものである。

そしてあらゆるフィットネスクラブに入会条件があるように、西方浄土に行くためにも条件がある。その条件が「修行」ということになる。フィットネスクラブが数少なく、そこでエクササイズをしていることがステイタスシンボルとなるような段階では、入会条件は厳しくなる。ところが駅前にはフィットネスクラブという状況になると、誰でも入れるように条件が緩くなる。

「浄土」という考え方も同じである。当初、僧侶の中だけで「浄土」が問題となっているうちは、さまざまな修行が要求された。例えば、浄土三部経の読誦、阿弥陀仏と浄土の観察憶念、五体投地や合掌低頭などの礼拝、南無阿弥陀仏と口に称える称名、仏を讃美称揚し供え物をする讚歎供養などがある。しかし浄土思想の理路からすれば、誰もが浄土に行く(=往生)ことが出来ねばならない。この娑婆では修行ができない人が行くための場所であるのに、そのための修行がこの娑婆では出来ないというのでは本末転倒である。

そういうわけで浄土に行くための修行は、誰でも簡単に出来るものに絞り込まれてくることになる。それが「南無阿弥陀仏」と口に称えること、いわゆる「称名」である。「称名」それ自体の中でも修行の難易が問題となる。つまり回数の問題である。そしてここでも誰にでも出来るという理路にしたがって「一念」という問題に行き着く。ところが面白いもので、「称名」という具体的な行為が簡単になればなるほど、簡単には解決しない問題が浮上してくる。つまり「信」の問題である。称名という具体的な修行は簡単だが、阿弥陀仏を信じるのはなかなか難しい。そうすると結果として、阿弥陀仏を「信じられるか」「信じられないか」が非常に重い問題となってくる。「信じての称名」と「信じていない称名」ではまるで意味が違うことになる。この辺りの問題を正面から自身の問題として引き受けたのが親鸞である。

ところが一遍という人は、「信じる」「信じない」も大した問題ではない、と宣言したのである。一切衆生(すべての人間と植物以外の生きもの)が必ず往生することは決っているのだ、そう宣言したのである。一遍について語るというのは、なぜこのようなことが言えるのかをきちんと説明することである。しかしそれがなかなか難しい。僕自身の中で整理され切っていないことが最大の原因なのだが、一遍という人は発言も大胆なら、やることも大胆。自分が死ぬ直前に『阿弥陀経』を読みながら、自らの持っていた書籍をすべて燃やしてしまったのである。「一代の聖教皆尽きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」。それゆえ、一遍について考える手掛かりは『一遍上人語録』と『播磨法語集』という断片的な語録しかないのである。(どちらも岩波文庫には収められている)。

断片的な言葉から妄想の世界を膨らませることはそれほど難しいことではない。しかし断片的な言葉から正確な全体像を想像するのはかなり難しいことである。おそらく僕の頭の中にあるのは、妄想と想像が混在している世界像だろう。分量も多くなってきた。次回はわりとはっきり想像できていそうな部分について書いてみようと思う。一遍の言う「捨てる」ということについてである。




21:59:07 | tonbi | |

24 May

同じ話しを繰り返すこと

『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』という本を読んだ。竹内整一という倫理学や日本思想史を専門にしている東京大学教授が書いたもので、「ちくま新書」の一冊である。なぜ読んだのかというと、続けざまに2つか3つ書評を目にしたのと、タイトルにちょっと魅かれたからだ。

読んでみたが、日本人が別れに際してなぜ「さようなら」と言うのかはわからないままである。「さようなら」という言葉を別れる時に使うことが世界的にも特殊であることを述べ、その「さようなら」という言葉を中心に日本人の精神史を説き明していく。内容的には『日本人の精神史〜「さようなら」という言葉をめぐって』というタイトルの方が正しい。

しかし新書はタイトルで売るのが主流である。『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』という方が明らかにキャッチーである。こういうタイトルで使うことで、誰もが日常的に使っている「さようなら」という言葉がちょっと不思議な言葉として心に留まる。当たり前になって意識がスルーしてしまうことを改めて考え直すというのは大切なことだ。その意味では、まあ悪くない本である。思いつくままに2つか3つ書いておこうと思う。

世界の別れの表現、別れ言葉は、おおよそ次の3つのタイプに分類することが出来る。
1、”Good-bye” “Adieu” “Adios” “Addio”
2、”See you again” “Au revoir” “再見” “Auf Wiedersehen”
3、”Farewell” “安寧ヒ、ゲセヨ(ケセヨ)”

1 のタイプは、”Good-bye”(”God be with you”がつづまったもの)が「神があなたとともにあらんことを祈る」という意味合いの別れ言葉であるように、別れに際して、神のような存在のご加護を願うという別れ方である。
2のタイプは、”See you again”が「再び会いましょう」という意味の言葉であるように、別れに際して再会を願う別れ言葉である。
3 のタイプは、”Farewell”が”Well”「うまく」、”fare”「やってください」という意味であるように、別れに際して相手が元気で安寧であることを願う別れ言葉である。

では「さようなら」はどうかというと、この3つのタイプには当てはまらない。「さようなら」「さらば」という言葉は、もともと「然あらば(さはらば)」「さようであるならば」という言葉である。「前に述べられた事柄を受けて、次に新しい行動・判断を起こそうとするときに使う」もので、もともと接続の言葉である。このように、ほんらい接続詞である言葉を「別れ言葉」として使うのは世界的にも珍しいことである。しかも日本では10世紀の昔からこの言葉を使って「別れ」を繰り返してきた。そのような意味で、「さようなら」という言葉を掘り下げて行けば、日本人の精神史が見えてくるのではないか。

そのような考え方で、1つには「さようなら」という言葉を「いまは」という言葉と比較したり、「おのずから(自ずから)」と「みずから(自ら)」という言葉を取り上げたり、「あきらめ」や「無常観」となどの言葉と絡めたりすることで、日本人の「ものごと」や「できごと」の捉え方などを明らかにしていく。もう1つは、誰もが避けて通ることの出来ない最も大きな「さようなら」、つまり「死」について掘り下げていく。日本人の精神史のようなものについて興味があり、その分野についてあまり読んだことのない人にはお勧めである。

この本の中で個人的に面白いと思ったのは、九鬼周造の文芸論について触れている部分だ。九鬼によれば、詩の持っている、「押韻(韻をふむこと)」「リズム」「畳句(リフレイン)」といった技術はすべて、「いま、現在」を繰り返し反復することによって、そこに「永遠のいま」を顕現させようとするものである。この移ろいゆく不確実な日常で、すべての出来事は偶然、たまたま起こっているようにしか見えない。そのような浮世において、何か確かなもの、永遠に続くように思うものをつかまえたい、そのために「押韻」「リズム」「リフレイン」つまり「繰り返す」ということを人は行うのである。

この部分を読んで、同じ話しを繰り返すことについてちょっと考えてみた。ある飲み会のあとに、「○○さんは、本当に同じ話しをくりかえすなあ」と、ある人が口にしていたからである。同じ話しを繰り返すというのは、もちろん自分にも思い当たる節がある。

同じ相手に同じ言葉を繰り返すということがある。例えば子どもに「きちんとあと片づけをしなさい」とか。これは、子どの中に「あと片づけ」という言葉を定着させようとすることである。つまり、移ろいやすく不確実なことを、確実に永遠にことにしようとしているのだ。

あるいは、直観的にはわかっていることを、何度も、何度も言葉に置き換えることがある。繰り返していくうちに、たどたどしい語り口が、滑らかになり、自分にも相手にもしっくりしてくる。不安定な語り口を安定したものに、確実なものにするために、話しを繰り返す。安定し、思い通りに話せるようになった時、不思議と言葉にしようという思いが薄くなっていく。

いずれにせよ同じ話しを繰り返すというのは、相手に対してであれ、自分にとってであれ、不確実な出来事を確実にするための行為なのだろう。では飲み会などで、毎回、同じ話しを繰り返すのはなぜだろう。これはある種、年寄りの繰り言に似ているのではないか、と思っている。

経験的に言えば、そういう時に聞かさせる話は、自分にはほとんど関係のない話しである。関係がないから聞かされるまでたいていは忘れている。忘れているが、その話しが始まった瞬間に話しのすべてを思い出す。そして、またか、と思う。そんなに何度も同じ話しを繰り返さなくても覚えているよ、と思う。でも相手は話しを辞めない。終わりまできちんと話す。話し終えると満足そうにしている。何かの確認を終えたようだ。

おそらく話し手は、その話しが皆の記憶から忘れ去られてしまうことを本能的に察知しているのだろう。みんなの記憶から忘れ去られた出来事は、存在しなかった出来事と同じである。自分が大切に思っている出来事が存在しなくなることは、自分の存在の一部が消えていくようなものだ。移ろいゆく不確実な存在としての自分、その自分を確実なものとしてこの世界に定着させるために、何度も、何度も同じ話しを繰り返すのだろう。

過去の個人的な記憶を、共同体の事実として共有させ、その過去の事実が現在を基礎づけていく。これは古代の人々が、夜に焚き火を囲みながしていたことかもしれない。そんな神話発生に似た状況が、場末の飲み屋でも行われているのである。人間というのは、何千年経っても案外変わらないものかもしれない。個人ではなく人間という種の単位で、この移ろいゆく世界で、同じことを繰り返しているのかもしれない。そこには「誰のどのような思い」がはたらいているのだろうか。

ということを書きながら、何だか滑らかに書けていないなと感じている。おそらく、この話しは自分にとってまだ、不確実で不安定なのである。多分、何度か繰り返すことになるのだろう。




13:08:39 | tonbi | |

18 May

皇居50kmマラソン

昨日は皇居マラソンで50kmを走った。タイムは5時間を少し切るくらい。悪くない。ウルトラマラソンを視野に入れた長期目標では、この大会の目標タイムは5時間を切ることであった。その意味では悪くないが、目標にはもう一つ条件がついていた。5時間を切って余裕が残っていること。

余裕なんてものは全く残っていなかった。久しぶりに苦しい走りだった。最初から体が重い、脚が上がらない。おまけにコースが厳しい。皇居(内濠コース)は1週5km、桜田門からスタートして外苑から大手門、竹橋へと抜ける。この辺りは平坦なコースだが、その先は上りが続く。国立近代美術館の向かいを上り、しばらく上りが続き、千鳥ケ淵の交差点前で少し下る。半蔵門まで再び緩やかに上り、そこから一気に三宅坂を下り、桜田門に戻る。これを10回繰り返す。

5周目くらいからうんざりしはじめる。「もうだめだぁ」という精神的な負けというほどではないが、「はやく終わってくれないかな、これ」という感じだ。満員の電車が事故などで止まってしまって、なかなか駅につかないような気分である。仕方がない、と頭ではわかっているのだが、決して心地よいものではない。

40km過ぎにはちょっとだけ意識が飛びそうになった。はっと、気がつくと自分が走っている。そんなことが何度かあった。これはまずいと思い、自分は今、実は甲子園を目指す高校球児で、監督の理不尽な命令でずーっと走らされているのだ、そう思い続けながら走ることにした。しかしよく考えてみれば、これも決して意識がしっかりしているとはいえない。だいぶ錯乱している。とはいえ、何とか完走は出来た。最低限のノルマは何とかクリアできた。

今回の大会には、ウルトラマラソンを一緒に走るNさんと、知的障害児のランニングをサポートしているIさんの3人で参加した。Nさんは長男の保育園時代の保護者同士で、サロマ湖ウルトラマラソンを10回以上完走している強者である。先日もウルトラマラソンのトレーニングを兼ねて、富士五湖(112km)を走ってきた。サロマ湖よりきつい、というのが本人のコメントである。(サロマ湖よりも長い距離を練習にしていることがすごい。2年半前には諏訪湖から日本橋という250km近くのレースも走っている。)

Iさんは30kmのレースに参加。最初の2周を知的障害児の伴走し、その後は自由に走る予定であっが、2週目で足にマメができてしまいリタイア。知的障害の青年のスピードに着いていけなかったのだ。僕も何度か知的障害児の伴走には付き合っているが、彼の伴走は無理である。10kmを40分ちょっとで走ってしまう。とてもじゃないが着いていけない。

そんなわけで青年は早めの段階で、レースを1人で走ることになった。残念なことに25kmでゴール(実際はリタイア)。途中で転んでしまい、係員に保護されてしまったのである。ゴール後、お疲れさまの握手をしたら全くケガをしていない。あとで聞いたら、転んだのではないらしい。前のレースで転んでうずくまっていたら、みんなが優しく介抱してくれたので、今回もうずくまってみたらしい。

たまたま僕の30kmの通過と彼の25kmのゴールが一緒だったので彼のゴールを祝福しようと並走していた。(この時点では、25kmのリタイアだとは知らなかった)。ゴール手前で拍手をしたり、ゴールの中から係員が声をかけたりしている。本人もうれしそうにゴールに走っていく。拍手や歓声が大きくなり、ゴールラインをまたぐ瞬間、何故か彼は立ち止まり、そして周りを見渡している。皆がもう一歩、もう一歩と大きな声で叫ぶ。ほほ笑ましい光景である。

ゴール後、NさんとIさんは飲みに行くという。本当に元気である。僕は家に帰り、缶ビールを飲んで早々と寝てしまう。また、夢をみた。1つは本を読んでいる夢だ。眠くて、眠くて仕方がないのに、何故か残りのページを読みきるまで眠ってはいけないと頑張っている夢だ。誰かに強制されているわけではない。いつ眠ってもよいのにも関わらず、ノルマをこなすまでは眠れないと頑張っている夢だ。

もう一つは、大学受験の二浪目という夢だ。みんなは予備校などに行ってきちんとした結果を出しているのに、自分だけ予備校にも行かずに、勉強が遅れているという夢だ。どういうふうにしてこの遅れを取り戻そうかと必死に思案している夢だ。

ゴール後、ウルトラマラソンがだいぶ不安になってきた。もしかしたら、練習方法に決定的なミスがあったのではないか、そんなことを思わせるくらいきついレースだった。おそらくその辺りが夢に出てきたのだろう。そうは言っても、出来ることといえば走り込むことくらいしかない。そんなわけで今日も筋肉痛で重い体を引きずって10kmほどジョギングをした。もうしばらく、心身ともに頑張ってもらうことにしよう。



20:56:09 | tonbi | |

16 May

ポジティブにいきましょう


明日は皇居50kmの大会だというのに、結局、体調がもどらないまま週末になってしまった。日常的な生活をしているだけなら何ともない。ちょっとした咳と鼻水が残っている程度だ。ただ1時間、2時間と走るとなるとわからない。突然、ガクンと体調が落ちるかもしれない。

脚のケガも結構なものである。木曜日にやる気のないまま合気道の稽古に行き、どうやら右大腿部の筋をしたたか痛めたようである。座った状態から自然に立ち上がることが出来ない。その他の古傷も相変わらずだ。さらに明日は雨のようだ。雨合羽を着て5時間以上も走るなんて考えただけでもうんざりする。

まあ、あらゆる悪条件をトレーニングの負荷だと考えて、出来るところまでやってみるしかない。楽しみ亦その中にあり、という感じだ。(そういえば、この大会は去年も3日前に肉離れを起こした。あまり相性が良くないのかもしれない)

基本的にとても楽天的である。自分の思い通りにならないことや予想外のことが起こると、「ほう、そうきましたか」という感じで受けとめている。おかげでほとんどストレスを感じることなく日常を過ごしている。ありがたい限りだ。もちろん、生まれてからずっとこんなわけだったのではない。10代半ばから20代前半は、胸の辺りに灰色の鉛のかたまりがいつもあって眠れない、というような日々をずっと過ごしてきた。

思想的なバックボーンは、間違いなく親鸞にある。20代の前半に『教行信証』を中心に親鸞の書物を読み返すことで、ある種の世界の読み解き方を手に入れることが出来た。端的に言えば、自分の予想を裏切るような出来事は、すべて自分を良い方向に向かわせる出来事である。そのような自分以外の力(=他力)をそのまま飲み込んでしまえばよいのだ、ということである。

頭ではわかっていても、実感がともなわなければ意味はない。20代の終わり頃、実感をともなう出来事が起こった。4年近く務めていた会社を辞め、失業保険がちょうど切れた時のことである。ちょっとしたアルバイトのような感じで、家庭教師のようなことをしていた。行き帰りには車を使っていた。片道およそ10km弱の道のりである。

ある日の帰り道、スピード違反で捕まってしまった。自分ではとても注意深く運転しているつもりだったので、捕まった時にちょっとした飲酒運転の検査なのかと思ったくらいだ。(後にも先にも警察に捕まったのはこれ1度である)。聞くとスピード違反だという。31kmのオーバー。一発で免許停止。その上、罰金は62000円。驚くなかれ、何とその月の収入は60000円だった。(この時ばかりは、さすがに生き方を改めようかと思った。)

免許停止なので仕事に車が使えない。相方が行き帰りを車で送ってくれるという。優しくありがたい申し出だが、行き帰りといえば二往復である。1人で行っていた時の2倍のガソリン代がかかる。自分の愚かさによって2倍のガソリン代をかけることは出来ない。何ならかのペナルティが必要である。そんなわけで、行きは車で送ってもらい、帰りは自らの脚で走って帰ることにした。

ランニングといっても、それまでは軽めのジョギングしかしたことはない。長く走っても5km程度である。もともと走るのは最も嫌いなことだったし、高校時代には3km程度走っても入院するくらい体に問題があった。10kmというのは人間が走る距離ではなく、車が走る距離だった。

もちろん、最初のうちの何回かはとてもきつかった。距離も長いのだが、走っている時間がとても長く感じられた。それでも何回か繰り返しているうちに何とか走れるようになってきた。楽に走れるようになると、いろいろなことを考えられるようになった。

そんな時、ふと思った。ああ、自分は10kmも走れるようになったのだ。上手くすればフルマラソンも走れるかもしれない。そういえば、こんな風に走れるようになったのは、スピード違反をして車が使えなくなったからだ。高い罰金も払ったけど、結果的にはそこから一番よいものを手に入れられたのかもしれない。もしかしたら、どんな出来事でも同じように対処できるかもしれない。一見、自分にとってトラブルに見えることは、自分を次の状態に向かわせるよい状況なのかもしれない。逆境を逆手にとってその力を上手く利用してしまえば、自分の力だけでは出来ないことも出来るかもしれない。

そんなことを思ったのだ。そしてよくよく考えれば、すでに親鸞の思想を通して自分がそのことを知っていたことを思い出した。それ以来、基本的にはポジティブにものごとを受けとめている。もちろん叩きのめされることもある。それでも、状況を楽しむことはできる。どうせやるやら、楽しい方が良いに決まっている。

そんなわけで、明日はかなりの逆境の中の皇居マラソンである。走ることに慣れてしまったのかほとんど緊張感はないのだが、客観的に見れば、去年の肉離れよりもかなり悪い状態である。この逆境のどこに逆手があるのか、その逆手を手探りでさがしながら、皇居の周りをぐるぐると走ろう。上手く捕まえないと、リタイアということになるのだろう。





20:52:09 | tonbi | |