Complete text -- "保育参加"

21 March

保育参加

先日、豚児(次男)の保育園に保育参加に行った。マラソン後の筋肉痛が残っていたので、多少心配ではあったが、思う存分、子どもたちと遊び、楽しむことが出来た。

保育参加とは何か。それは、保育園が親たちを決められた日に集め、子どもたちの成長を見せるといった会ではない。会どころか、全くの個人参加である。子どもと遊びたいのですが、と親から声をかけ、保育園側と日程を調整し、朝から昼ご飯まで子どもたちと一緒に過ごす。そんな感じである。

愚息(長男)が保育園に通っている時にも、何度か保育参加をした。先生たちと話をしたり、子どもたちと交流を深めたりと、かなり楽しい思いをした。そんなわけで、豚児の方にも保育参加をと思っていたのだが、年度がかわるぎりぎりになってやっと実行することが出来た。

豚児は現在、2歳児クラスである。(この時期にはほとんどの子どもが3歳)まだまだ幼いものである。いろんな子どもたちから「パパ」「パパ」と呼ばれる。「パパ、こっちに来てパズルをやろうよ」と誘われたり、「パパ、うわーっ」と言いながらタックルしてきたりする。その度に、内心「私はお前のパパではない」と思いながらも、ついつい笑顔で「おっ、機関車トーマスのパズルだ。いいねぇー。なんだ、出来ないの。じゃあ、やってあげる」と言いながら、取り上げて自分が楽しんだりする。

そうそう、子どもと遊ぶ時には重要なことがある。上手く子どもと遊べない人、これから子どもと遊ぶことになる人には参考になると思う。こういうことだ。自分が大人であることを忘れること。そして自分がいちばん楽しむことである。

大人であることを忘れること。何も子どもになれ、というのではない。比喩的な表現としては理解できるが、実際は無理である。大人が子どもになったら、けっこう不気味な姿が現れるはずである。大人であることを忘れるとは、上下関係をなくすということである。大人が上で子どもが下だという無自覚な構えを捨てることである。そうすると、子どもの方が自然と寄ってきて、対等に付き合ってくれる。砂で作ったカレーライスを用意してくれたり、一緒に走ろうと誘ってくれる。

大人はついつい、子どもにつき合うとか、子どもと遊んであげるという言い方をしてしまう。でも、実際は違うのかもしれない。子どもから選ばれた大人のみが、子どもと遊ぶことが出来るかもしれない。子どもは心が広いから、大人がそっけなくしていても、何度かは声をかけてくれる。でも、あまり無下にしていると、そのうち声がかからなくなる。子どもと対等に遊べる何かが無くなってしまったからだろう。

子どもと対等に遊べる何か。それは大人の中の子どもである。いい歳の大人が子どもと対等に遊べたり、思春期の孤独に共感したり、青年期の不器用な恋愛の物語に心を揺さぶられたりする。大人がそういうことが出来るのは、その人の中に子どもの自分、思春期の自分、青年期の自分が生きているからだろう。過去の出来事は通りすぎてしまったが、その時の自分は今もここにいるのである。

子どもと上手く遊べないのは、大人の自分が子どもの自分とはぐれてしまったからかもしれない。子どもの自分はどこかでじっと待っているかもしれない。あるいは泣きながらいまの自分を探しているかもしれない。自分の中の子どもを見失うほどに、人はその分、薄っぺらになる。子どものことを頭では理解できるが、一緒には楽しめないくらいに。

自分の子ども時代に問題があったので、親として子どもと上手く接することが出来ないという不幸な場合もあるだろう。しんどいことだと思うが、そういう大人こそ、子どもの頃の自分を探しだすべきなのだ。その子は大人にどうあって欲しかったのかを確実に知っているのだ。だから、その声をしっかりと聞き取って、それを子どもにしてあげれば良いのだ。

話は流れたが、子どもと遊ぶ時に大事なことの1つは、大人の自分を忘れることだ。

そしてもう1つ。自分がいちばん楽しむことである。これは簡単な話である。子どもと中途半端に遊ぼうとすると、すごく疲れるのだ。その上、子どもたちもどこか満足しきらない。自分は疲れるし、子どもは不満。おそらく親をやっていれば、誰でも経験があるはずだ。せっかく遊んだのに、それじゃあもったいない。だったら、徹底的に楽しんでしまったほうが得である。

結局のところ、子どもは遊んでもらいたいのではなく、一緒に楽しみたいのだと思う。語彙が少ないからそれを「遊んで」と言ってしまうのだろう。正確には「一緒に楽しもうよ」ということだろう。「一緒に楽しもう」か。そう書いて、それがきわめてまっとうな感覚であることに驚いている。

「一緒に楽しもうよ」。人と何かをする時に、発する言葉としてこれほど良い言葉はないかもしれない。自分の力の限り、出合う人と一緒に楽しもう、そう思いながら日々過ごすことで、人生も世界もけっこう楽しいものになるかもしれない。(相変わらず能天気である)

一緒に楽しめれば上手くいくけど、楽しめなければ上手くいかない。子どもと遊ぶとそういうことを思い出させてくれるし、考えさせてくれる。また、楽しい時を過ごしてしまった。



11:02:58 | tonbi | |
Comments

こいしま wrote:

再び失礼します。
1人目が生まれたとき、親族の1人から「育児は育自である」と言われ、私は「自分も成長すること」と思っていたのだけど最近「子供に育ててもらっている」と思うようになりました。もっと言えば子供のおかげで世の中うまく渡れるようになった、といってもいいです。
子供と一緒に楽しむというのは、本当に素敵なこと。でもそれは「子供の自分」が存在している(いた?)から成り立つことですよね?
大人同士で一緒に楽しむにはそういった無自覚でも共通の、同じ立場になれる何かが存在しなければ楽しむことはかなり難しいと思います。
大人って子供と違って、たくさんの経験、それなりの人生があり、共通の何かを見つけるのは簡単なようだけど、逆にそれはその人だけのもので共通するものなんてないんですよね。年取ると頭が固くなる、なんていうのはきっとそういう共通部分が、自分限定ものになってくるだけのことじゃないのかな、と思います。
そうすると、昔の自分よりも今これからに共通部分を見つけたほうが人と楽しめる。そういう時、わが子というのはこれはすごい力と発揮してくれます。
「子供を持つ親」というのは育て方がどんなに違ってもものすごい共通点です。
知ってのとおり、うちは年寄りの来客が多いし、大姑・舅・姑・小姑とそろってますが「親」という共通点で、私はかなりの人、新しい家族と楽しめるようになりました。
そこでようやく、向こうも私に対して共通点がなく自分なりの楽しみ方で接してきてくれていたんだ、と感じることができるようになりました。
それってわからなければ溝が深まるばかりだったから本当に親になれて良かった、新しい共通点ができて良かった、一緒に笑えて良かった、と「育自」させてもらいました。
自分本位な意見になりました。ただ子供を親というだけで利用してるのか?という風にとらえられてしまうと少し困ってしまうのだけど、トンビさんならわかってくれますよね〜?なんて…。
今日は終業式でした。でも欠席。残念!
だんなにはちゃんとプレゼントを用意しましたよ(笑)
03/24/08 20:38:31
Add Comments
:

:

トラックバック
DISALLOWED (TrackBack)